2005/12/29

日記「Harrison Hot Springs 再訪」

「永遠のビートルズ」「湯冷めしない方法」ほか。

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■ 05/12/08(木) 09:50:03 □ 永遠のビートルズ
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 日本語学校。今日は買い物もないので萌を待ちながら Pocket PC でジャーナル編集。ときおり窓からクラスを覗いてみると、萌は楽しくやっている様子。

 今日はジョンの命日。最近萌がビートルズを好むのでよく聴かせており、さすがビートルズメロディは永遠だと思っていたのだが、車の中などで何度か聴くと萌は、

> Let's all get up and dance to a song
> That was a hit before your mother was born.
> Though she was born a long long time ago,
> Your mother should know,
> Your mother should know.


とか

> I am the egg-man, they are the egg-men,
> I am the walrus, goo goo a' joob.


 とか、すらっと覚えて歌ってしまう。難しい単語がないので聞き取ってしまえるのだ。「Fool on the Hill」を聴いて、「Nobody seems to like him だって、かわいそうねえ」なんていっているから恐れ入る。ビートルズで耳に響くのがメロディだけではないのである。英語圏の子供はすごいな。

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■ 05/12/09(金) 09:34:38 □ WC組分け決まる
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 ジムナスティックス:子供たちが大声でクリスマスソングを歌いながら飛び箱を跳んでいる。おかしい。

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 帰ってWCの組分け番組を見る。3チームまでが決まったところで、

> グループB:イングランド、パラグアイ、スウェーデン
> グループC:アルゼンチン、コートジボワール、オランダ
> グループE:イタリア、ガーナ、チェコ

 ここらは絶対避けたいー! 地獄ー! .....と祈っていると結局、

> グループF:ブラジル、クロアチア、オーストラリア、日本

 こうなった。うーむ。アジア勢では一番恵まれなかった感があるが(※)、まあWCまで来てしまえば相手が強いのは当然であって、ここを勝ち抜けなくてどうするというのが実感である。オーストラリアはWCは初めても同然だし、クロアチアはあの黄金時代にさえあと一歩まで追い詰めることができたのだ。あれからスターが出てないクロアチアに対し、こっちは中田クラスの才能が増えているのである。
(※)メキシコとポルトガルがつぶし合うなか漁夫の利を狙えそうなイラン、真っ向勝負で2国を敗れる可能性のある韓国、2002 年の結果から見て少なくとも1勝は見込めるサウジアラビア.....、という感じ。

 実際この組分けはあの98年に似ている。あの時の口惜しさを払拭できる天の采配といえる。さいわい対オーストラリア、クロアチア、ブラジルと試合順もベストだし、勝つしかなし。

 しかしヒッジョーにつまらないショーに続く、超盛り上がらないクジびきだった。ポッドD(最弱)から先に選べば、ポッドA国が引かれる瞬間までハラハラが続いて盛り上がるのに。ポッドDのうちはどこに入るのだと最後までハラハラしていたが、ポッドA/B国は「アジアなぞどこが来ても大差なし」という構えだったろう。

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 去年萌が発熱で行けなかったプリスクールのクリスマスパーティが今夜だというので、IV先生に連絡して行かせてもらった。プリスクールはデイケアの拡充とかでものすごい大人数となっており大盛況だったが(全部で100世帯300人くらいいたのでは)、出し物はプリスクールキッズの歌が3本くらいあっただけで―――あのHNがすんばらしいデキであった―――、他には何もなし。パーティはただ食べるだけなのであった。

 しかし夜だし大人数だしKTたちに加え去年までの同級生もいて、萌は興奮のきわみ。なんか食べ過ぎて帰る頃にはおなかが痛くなってしまっていた。思ったほどのスペシャルなパーティではなかったが、とにもかくにも去年超かわいそうだったのが埋め合わせできて、すっきりした。

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■ 05/12/11(日) 11:09:50 □ Harrison Hot Springs 再訪
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 今日から2泊で Harrison Hot Springs。天候は良好。

Start: Port Coquitlam, British Columbia, Canada
End: Harrison Hot Springs, British Columbia, Canada
Total Distance: 94.2 Kilometers

 14:45 頃出発。道中アボッツフォードからチリワックあたりは、ときおり農家が見えるほかは何もない平たい峡谷なのだが、左側に低い山が近く右手に高い山が遠くあり、長野から上田・佐久方面に行く国道18号とあまりにも景色が似ている。生えている木がちょっと違うだけ。そうMに言うと、「ジー本当だわ、言われるまで気づかなかったけど、もう今は長野にいるとしか感じられないわ」と言っていた。道の両端に畑が広がるあたりは、「これがもし田んぼだったら、須坂から湯田中に行くあの米作エリアそのものじゃん」「日本の家々が見えてきそう!」と疑似懐かしがる。

 1時間半強でホテル着。前回よりもいい部屋で快適。ホテル好きな萌が喜び、こちらもうれしい。

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 SHたちと合流し、ホテルのレストランが相変わらず1箇所だけで、高くて選択肢がなくそそられないので(ハイシーズンはもうひとつレストランが開いて選択肢があるらしいが―――って、温泉のハイシーズンっていつなんだ?)、ハイウェイ近くの町まで戻ってファミリーレストランで食事。これだけバリっとしたホテルでありながら、こういうところであまりホスピタリティがないのが不思議な施設である。町中のビジネスホテルじゃないんだから、客がいったん入ったら外に出る必要がないようにしといてもらいたい。外に食べに出たとて田舎ゆえうまいものなどないのだし、こうして食事に出ている時間はホテル滞在時間の浪費なのだよな。この時間もお湯に入っていたいのに。

 俺はだいたいカナダじゃ外食自体が好きではない。飛び込みでうまい店に当たる率が低いのは仕方がないが、カナダのレストランはとにかく滅茶暗いのが嫌なのだ。カナダ人は全般に暗めの間接照明が何故か好きなのだが、レストラン系は極端である。今日の店などメニューを読むのに苦労するくらい灯りが暗く、BRはフラッシュライトを借りて読んでいた。こういう場所で手元に注意を払いつつ(実際萌はコップを倒してしまった)ものを食ってもうまいわけがない。出てきた食べ物を目で味わうなんてことも当然ないゆえ、うまくない食べ物がさらに味気なく感じるのであった。

 萌はこの旅行前あたりから本当に、なんでもかんでも自分ひとりでやることに命を懸けていて、レストランのトイレにも果敢に一人で入っていった。あっついスープが出てきたのだが、これも少量ずつスプーンにとってフーフーと吹き全部飲んだ。ビッグキッドである。えらい。

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 そして晩飯後ようやく入浴。まあなにはともあれハリソンのお湯はいい。短時間ながら萌としみじみ味わいました。

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■ 05/12/12(月) 10:04:50 □ 湯冷めしない方法
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 昨夜はぜんぜん眠れず。布団カバーがカサカサ音を立てずり落ちるので、気になってどうしても熟睡できないのである。寝ないとやばいなあ、体調崩すなあと思いつつ3時まで Pocket PC で古いファイルを読んでいた。

 昨夜読んでいたのはなんと懐かしき、95~96 年のバンクーバー日本語ネット DOSVAN のログ。アクティブメンバー4~5人とは思えないほど内容が充実していて面白い。やはり当時バンクーバーで日本語は絶対にここにしかなかったから、誰もが日々の想いを存分にぶつけていたんだよな。内輪受けが過ぎるのだが(俺が愛想よすぎて気味が悪い ^_^;)、この広いバンクーバーで5人しかメンバーがいない中では、内輪受けをなくしては話題が続かなかっただろうし。

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 今日は午後になってからようやくお湯に入ったのだが、寝てないゆえ湯冷めしたらすぐにも風邪をひいてしまいそうな体調の悪さを感じる。どうしたら湯冷めしないで済むか湯の中で考えたのだが、気温3度の渡り廊下をガウンだけで建物へ戻る時点ですでに暖かさは消えており、そこから館内に飛び込み部屋まで走るわけで、部屋に着く頃にはどうしても冷えてしまう。

 日本の場合は露天風呂でも、暖かい更衣室に座りゆっくりと汗をひかせ体を拭けるから寒くならないわけで、ハリソンでも更衣室はあるので使えばいいわけだが、こっちはやっぱり単なるプールの更衣室なので足元が濡れて気持ちが悪く、着替えは部屋に戻ってやりたくなってしまう。お風呂が気持ちいいだけに、気持ち悪さを我慢するのはよけいに難しい。

 そういうところがお風呂大国日本の温泉システムの練れたところなのだが、もうひとつ、日本手ぬぐいもやっぱり優れてるなあと思う。お湯に入れてもケバを出さず、露天風呂で頭にのせたり巻いたりすれば保温になる。実に温泉に最適化されたタオルなのだ。

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 今日の晩飯はホテル内カフェのチリビーンズとクロワッサン。旅行中に下手にうまいものなど望まず、この程度のお手軽食事で済ませるのが一番だという感じでつつましい幸福感がある。

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■ 05/12/13(火) 12:41:04 □ 小布施の外風呂と同じくらいでした
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内風呂快適40度

屋外大人風呂ぬるめの38.5度

屋外子供風呂34度、冷えます
 今日も眠れず、だが最後なので頑張って起きて飯を食ってからもう一度お湯につかった。風邪をひきませんようにと祈るような気持ちである。腕時計の温度計で調べてみると、

屋内 40度ちょうど
屋外大人 38.5度
屋外子供 34度

 となった。上の2つは十分に暖かく、やはり小布施の外風呂と同じくらいなのであった。屋外子供プールは体温より低いので、入っていると冷えてしまうのは当たり前。子供はのぼせやすいから温度を下げてあるのだと思うが、冬場はせめて体温と同等にしといていただきたい。「屋外大人」で十分に温まってから、萌と共に部屋までダッシュ。

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 帰りは渋滞もありやや疲れました。録画しといた NHK 国際の番組に、「モーサム・トーンベンダー」というバンドが出ていた。めちゃくちゃかっこいい。イギーポップとルースターズとビリケンの橋本さんが合わさった感じ。

2005/12/10

日記「はじめての通知表」

「ボケナス機械たち」「92年の英語苦労ばなし」ほか。

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■ 05/11/17(木) 11:08:13 □ スポーツをプロに習うということ
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 スイミング:萌は昨夜コンコン咳をしていたのだが、今朝は元気一杯に泳ぐ。今日は片手に小さなフロートを持ち、そのわずかな浮力をきっかけにバランスを取って身体全体を浮かせるという練習をしている。なるほど、こうして「浮く」という感覚を自然に理解させてしまうのね。

 このレッスンはなるほどの連続、目からうろこが落ちまくりである。スポーツをプロに習うというのはこういうことなんだろう。

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■ 05/11/20(日) 10:36:26 □ 関東村をネットで発見
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 朝、関東村で眠い体をベッドから引き剥がし、警備犬ビコにエサをやる夢を見て目が覚めた。関東村の夢を見るのは久しぶりだ。そこから半分夢うつつで関東村のことを延々と考えて眠れなかった。あの頃のことを書こうかと思うが、日記はテキストで全部残っていても、当時はデジカメがなかったので写真がない。日本でアルバムを探せば、いくらかはあると思うが。


 でふと google してみると、関東村の美麗な写真を大量に撮影して残しておいてくれた人がいた。おーなつかしい、懐かしすぎて涙が出るぜとキャプションを読むと、

> 「東京都府中市朝日町 関東村跡地」(1993/02/18)
> 1993 年当時の新聞の東京版で、取り壊しが進むこの施設のことを知り、早速カ
> メラを提げ、フェンスを越えて潜入しました。しかし、1時間も立たないうち、
> 犬を連れて巡回していた警備員に見とがめられ、撤退を余儀なくされることに
> …。もっと時間があれば、と悔やまれることしきりでした。

 と、これは俺がビコと共に巡回中に捕まえたカメラマン氏だったのであった(^_^;;)。このとき俺がこの人を捕まえずに放置しておけば、幼稚園やプールの方の写真も残しておいてくれただろうなあ。惜しいことをしたものである。

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 さらに探してみると府中でも立川でも、侵入して写真を撮ってる廃墟愛好者はちゃんといたのであった。あれだけのしろものが近くにあって写真に興味がある者ならば、トライして当然だよな。俺はいいカメラを持ってないのでビデオで撮影しまくっていたわけだが。

 これらの作者の方々に写真を借りられれば、あの頃のことを書ける。日記を読み返し、何を書こうかと考える。

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■ 05/11/21(月) 10:55:15 □ ボケナス機械たち
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 こないだ買ったオーブン&トースターの具合が悪くて、5分焼いてもトーストが焼けない。観察しているとコイルが十分な温度に達して赤熱するのにまる5分かかるのである。ネットで調べてこの機種がベストと結論し買ってきたMはがっくりして使うのをやめ、階下のBRからパンを縦に入れる式のトースターを借りてきた。気の毒。オーブンとしての性能に不足はないと思うが、月に数度のべーキングには最適でも毎日のトーストには使えないマシンなのであった。トーストを焼くのに8分とかかかったら、誰もがうんざりするに決まってるではないか。

 Mは買い物運のない人で、かつ機械にうといのでしょっちゅうこういう失望機器を買ってしまうのだが、今回はちゃんと調べた上でこれなのだからかわいそうだ。日本製なら「大手メーカーのを買っておけばまあハズレはない」という感じで、外観値段効能書きから好みのものを選べば済むのだが、米国カナダ欧州中国製品はハズレが厳然とある。値段相応である中国製を批判してもしょうがないが、米国カナダ欧州製品は独善的な仕様で使いにくいし、今回のように根本的に設計がボケナスであることが多く恐れ入る。

 うちのエアクリーナーの風量スイッチが「0-3-2-1」となってる(スイッチを入れるとまずぶわーっと猛風が出、そこから適量まで毎度下げる必要がある)のがボケナスの典型例だが、力学的に子供には開けられない形状の玄関のドアノブとか、スイッチパネルに文字がなく、説明書を読まないとどれが何のスイッチか絶対に分からない皿洗い機と洗濯機など、カナダに住んでるとバカ設計機具憤慨体験は枚挙にいとまがない。

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 今日は夜まで旧米軍基地関連 Web サイトを巡っていた。現役警備員時代には知ることができなかった事実がネットの力で次々と分かり、興奮している。

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■ 05/11/23(水) 09:15:20 □ ブレーキ診断
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 夏前から調子の悪いブレーキを OK Tire で見てもらう。アラインメントをやってくれた名メカのおっちゃんに症状を説明し、大手修理屋 Midas はマスターシリンダーがいかれたんじゃないかと言っていると述べると、どうして そのまま Midas で修理しなかったのかを聞かれた。うーん単におたくたちの方が好きなんだよと答える。同じ修理費ならば、気分のよい方に払いたいのは当然。

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 そして診断結果は、予想以上に悪かった。車の下に入っていかにもブレーキのエキスパートという感じのおっちゃんに説明を受け、前後輪キャリパーとディスクとパッド、総取り替えとなった。がっくし。リアはまあ寿命で仕方がないが、フロントは4年前に Midas でやってあるのである。それが駄目になっているということは、Midas の前回の仕事が悪かったのだとしか考えようがない。こちらの診立てでは、圧縮はあるのでマスターシリンダーは働いているだろうとのこと。

 あまりのことにがっくしして即答はできなかったが、今日の診断費は「君はお得意さんだから」と無料にしてくれたのがありがたく、全部やってすっきりするしかないなと思いながら帰る。夏以降の猛烈な燃費の悪さはやはり、キャリパーが固着してブレーキの引きずりを起こしていたのだった。直さざるを得ない。とほほ。

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■ 05/11/26(土) 15:48:39 □ 調布関東村記事を書き始める
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 関東村・府中基地などの写真利用許可が出たので、昨夜は夜中の1時まで延々と書いてしまった。本当はじっくり寝かせて思い出したことを足してからアップロードすればいいのだが、書いたそばから発表したくてたまらなくなってしまうインターネットパブリッシング。アップロードした後でちょこちょこ書き足したりしている。


追憶の調布関東村(1)関東村最後の日々追憶の調布関東村(2)関東村のシクスティーズ
追憶の調布関東村(3)府中基地キノコの森
追憶の調布関東村(4)ゴールデンブラウンの立川基地
追憶の調布関東村(終)さよなら関東村
日記「立川基地の青春」(ランドリーゲイトの想い出)

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■ 05/11/29(火) 08:45:51 □ 初雪
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 Mが SFU に行くので早起きすると、雪になっていた。びっくり。バスを逃したMをモールに送ったのだが、皆そろそろ走りで渋滞が起きていた。道は濡れてるだけで雪は残ってないのだが、雪が視界にあると心理的にペースが落ちるのだろう。

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 午後萌を迎えに行き、思いついて久々にLちゃんのところで落としてやった。KD姉さんが外で延々と雪だるまを作っていた。萌は大ハッピー。

 関東村記事は立川基地のあたりまで進む。HCやARに連絡を取りたいが、メールアドレスが見つからんなあ。

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■ 05/12/01(木) 11:51:21 □ はじめての通知表
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 今日から12月なのだが、昨日までが1学期だったそうで萌が通知表をもらってきた。これを見て「おお、うちの子が通知表かい」と感動すべきなのかもしれんが、別に評価を見ても発見はない。「手先の器用さ・文字の書き方到達度合い=合格」とだけあり、コメントはなし。やっぱあの先生は萌の絵や字への傾倒という持ち味には注目していないんだなと感じられる程度。彼女は子供に規律とフランス語を教えるのが自分の仕事であって、個性などに着目するのはキンダー教師の職掌外と考えているのかもしれない。1人で30人も見てるわけだし、そのことに不満を感じることはない。

 規律といえば、彼女は毎日5分遅れてくるのだが、クラスにくるなり騒然としたクラスにフランス語で号令をかける。それで皆しーんと静まるのだが、今日萌はブーツを脱いで着替えしている際中だったのに、フリーズして手を止めてしまった。いいから着替えを続けてというと、「先生があれを言ったら止まらなきゃいけないのだ」と萌は説明する。いや着替えとかそういうことはいいんだよ、あれは騒ぐなという意味なわけで....と言ったのだが、萌は頑として動かなかったのだった。つまりA先生がああいう号令調でクラスをハンドルしているから、キッズはこういう判断停止のオンオフスイッチみたいな対応しかできないのである。そういうところがいやはや......とは感じる。

 だいたい5分も遅れてきておいてクラスが騒いでいるからって大声を立てること自体がアンフェアであって(キッズは始業ブザーが鳴ると教室に入りちゃんと座って待っている)、皆が騒ぎ始める前に時間通りに来れば済むことなのだ。ここに文句を言わないカナダの父兄ってほんとに不思議。Mにカナダじゃこれが普通なのかと尋ねたが、他のことにはうるさい彼女もこういう時間のルーズさに関しては「まあねえ....」と寛容なのであった。

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■ 05/12/03(土) 09:52:47 □ 無念、森島
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 Jリーグ優勝決定戦、セレッソの動きがすばらしく西澤のヘッドで早くも先制。しかしFC東京も好調で間もなく追いつく。東京が伸び伸びとしてセレッソがあたふたし始める。ドローだとセレッソの優勝が消える。さすがに優勝は難しい。

 といきなりPKシーンまで放送が20分スキップ。こういう馬鹿げたカットをするということはこのPKは失敗だろうと思ったらその通り。さすがに優勝は難しい。現時点で首位は浦和との報。

 森島のボールの下に潜り込む感じの彼らしいヘッド! GKに抑えられる。

 後半ペースを握り直したセレッソが、ゼ・カルロスの崩しから西澤のゴールで突き放す。しかし1点差だと最後にやられる気がする。もう1点取らないと。個々の選手の能力でいくとFC東京のほうが上であるようで、局面局面でセレッソは負けている。

 残り10分、怪我をしたらしい森島が下がる。この森島のためにと、セレッソの皆は走り続ける。柳本がまだ現役でセレッソにいたのには驚いた。

 そしてロスタイム、やはり! 誰もがなかば予想したように、CKから守り切れずドロー弾が決まる。森島の顔が映し出される。うー。しかしこれは東京が強かったということで、セレッソの勝負弱さがうんぬんという感じではなかったのであった。優勝するには、事実として今一歩力が足りなかったのである。

 試合終了。カメラはガンバのスタジアムに切り替わった。無念、日本中の誰もが応援してしまう男、森島よ。

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■ 05/12/04(日) 11:57:56 □ 92年の英語苦労ばなし
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 関東村記事のために日記92年初春あたりを読んでいて、関東村で英語を独力で勉強し始めた頃は俺がいま思うよりもはるかにできなかったんだなと、改めて記憶をリフレッシュした。当時の英作ノートで

Do you tell me how to get to the bank.(→Could you...?)
◆ He has'nt come untill noon, so I couldn't wake up. (→He didn't...)
◆ I didn't expect that I've been able to had it. (→that I could have it)

 ですと。うぐぐ。まあこれで正しいとは当時も思ってなかったとはいえ、恥ずかしい(^_^;;)。ここから1年と少しの独学でかなり上達したので、「英語にはさほど苦労しなかったぜ」というタカピーなセルフイメージが残っていたのだが、やっぱり最初はこんなもんだったのである。

 その翌年に始めたコンピュータも完全に独学で満足なガイドブックの類もなく、今思えばとんでもないデキの悪さのOSやソフトウェアを相手に、信じがたい費用と時間をかけ苦労をしていた。初代 DynaBook だけで本体・メモリ・ディスク・モデム・ソフトウェアで総計20万超、Nifty の通信費が 10800 円......。忘れていたが痛恨の額である。他に選択肢はなかったとはいえ、ハードもソフトも通信も無茶苦茶高く、かつ今思うとありえないほどユーザーアンフレンドリーであった。―――まあコンピュータ費用に関しては、活用度を思えばトータルでモトは取れまくっているが。

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■ 05/12/05(月) 09:40:25 □ ロックンロール・ギター
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学校でDGさんと相談しLSをうちに招いて帰る。超~おハッピーで車中から延々ギグル(ゲラゲラ笑い)が止まらぬ二人。ギターを弾いて皆で歌を歌ったり....というかスクリームしたりした。

 萌は最近ギターに興味が出てきて、自分の好きな歌に合わせてぐわんぐわんと弦をかきむしっているのだが、だんだんとストロークでリズムを取るようになってきた。もちろん手が小さくて握力がないのでコードは押さえられないのだが、俺がコードを押さえてやればがーんがーんとそれなりにリズムを取ろうとする。よしよし。ギターは持てないのでウクレレに萌専用ストラップをつけてやった。ロックンロール。

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 最近萌は自己主張が強くなってきて、今日は俺がジェリービーンズを食べ過ぎるなと途中で差し止めると、「食べ過ぎるなって、どういう意味なのかわからないよ!」と泣くなど、声を荒立てるところが出てきた。いくつ食べていいのかを具体的に言ってやればよかったわけだが、こんなささいなコミュニケーションブレイクダウンのくやしさにポロポロと涙を流しながら主張をする姿に胸が痛む。

 だがこれはよいことで、萌は先生や大人にはちゃんと主張をできるわりに集団内では押しが弱くてワリを食う傾向がつよいので(列があると必ず最後方になり時間がなくなるとか、プレイグラウンドで前に割り込まれまくるとか)、やっと出てきたこういう心の波立ちを大事にしてやろうと思う。

2005/12/07

追憶の調布関東村(終)さよなら関東村

05/12/07 by サカタ@カナダ
(終)さよなら関東村

94年春カナダに渡ることを決めた私は、キノコ隊長らと相談して当時仕事をなくしていた年下の友人をあとがまに推挙し、教育実習や研修ののち無事彼が調布基地関東村後継警備員と決まりました。

引き継ぎの日。関東村構内、飛び地、府中基地と彼を案内し、私は仕事のあれやこれやを説明しました。3年前に隊長が自分にしてくれたことと同じことをしている。あの時と違うのは、廃墟の解体が進んで環境が激変し、キノコ関連で申し送ることがほとんどない点でした。隊長が教えてくれた倒木や切り株はみな土に埋められ、20年間落葉で理想的なコンディションを保っていたアミガサタケの苗床も、キャタピラに踏まれて消えて。

この関東村自体がなくなり大学が建てられることも、すでに決まっていました。関東村跡警備事務所の最後はこの後継青年が、97年に見届けてくれたのです。



最後の勤務日、私は事務所を掃除しながら、いろいろなことを思い出していました。

冬、極寒のプレハブ事務所でやかんの水が凍りついたこと。暖を取ったドラム缶の焚き火。

事務所でいつも読んでいた新聞の競馬記事。上京した父親と見に行ったジャパンカップで、天皇賞に続くオグリキャップの惨敗に落ち込んだこと。
そして有馬記念の翌日に読んだ高橋源一郎のコラム

湾岸戦争の報道を朝まで事務所で見続け、翌日書物を買い込み勉強したこと。
晴れた冬の日に見える富士山。場内いちめんの新雪。雪上に残る侵入者や犬の足跡。




夏は夏で事務所内が耐えられない温度になり、隊長が大工となってブレハブの周りに日よけを作ってくれたこと。ロビンソン・クルーソーみたいな彼の手により、孤島の粗末な事務所に家具や調理台が作り付けられ、文化生活指数が向上したのだった。

しかし水が足りず菜園作りには失敗(↑)。



警備犬ビコが森の中を駆け巡る姿。カミナリが鳴るとおびえる彼を事務所に入れてやらねばならず、犬臭さに閉口したこと。

追いかけまわした悪ガキやサバイバルゲーム集団や凶犬使い



飛行場側の、今はもうないだろう美しい桜並木。まるで恐竜の化石のようだった、エノキが出る倒木。

不法居住者の寝ぐらを見つけてしまったこと。彼に荷物をまとめさせゲートまで送り退去させながら、俺はまるで権力の犬だぜと落ち込んだこと。

 
不規則な生活と、今思えばちゃんと料理しとけよ俺と思うような貧しい食生活に、体調を崩しがちだったこと。

巡回の合間にNHKラジオ英会話を聞き込んだこと。覚えた英語が訪ねてきた関東村旧住人相手にちゃんと役立ちうれしかったこと。

そして大規模な解体が始まった93年、コンクリート塵に満たされ終末が見えてきた構内で、バンドもなく文筆の道も切り開いていけない自分の力のなさに悄然としていたこと。あてもなくただ、コンピュータと英語のスキルを身につけようとしていたのだった。




場内に残り最も破損の少ない建物だった幼稚園で(Kindergarten)。



長いこと世話になったな、関東村よ。ここに残っていてくれて本当に助かった。おかげで3年間ハッピーに暮らしてこれた。旅行をできたのも、自転車を買えたのも英語を覚えられたのも、みんな間違いなく関東村のおかげだ。本当に感謝するよ。

そしてビコ号と共にもう一度ゆっくりと時間をかけて構内を巡回してから、私はゲートに鍵を下ろしました。

私が関東村や府中基地に寄せる思いは、Chofu.org に集う人々や、立川基地で泣いたおじいさんたちと同じ種類のものでしょう。遠く、手が届かないゆえに強くこがれる気持ち。―――1・2・3・4、3・2・1・0。俺の気持ちは変わらないよ。前より君を思っているよ。俺は今でも宿なしだ。今現在も関東村にはいくつかの建物が残っているらしいことをネットで見つかる写真で知った私は、その写真を夜中に見つめているのです。

(終わり)



 (調布基地隣接サッカー場, 1990)




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追憶の調布関東村(1)関東村最後の日々
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追憶の調布関東村(4)ゴールデンブラウンの立川基地
追憶の調布関東村(終)さよなら関東村
日記「立川基地の青春」(ランドリーゲイトの想い出)

2005/11/30

追憶の調布関東村(4)ゴールデンブラウンの立川基地

05/11/30 by サカタ@カナダ
(4)ゴールデンブラウンの立川基地

芝公園公太郎さんの「廃墟デフレスパイラル」から写真をお借りして、立川基地についても少し書き留めておきたいと思います。油写真館「立川基地の廃墟」というサイト、および「米軍立川基地の残骸」というサイトにも、印象的な写真が多数残されています。



立川基地跡はキノコの隊長と、彼の古い友人である相方が受け持っていました。勤務が決まって初めて立川基地に入ったとき、「こんな戦場跡(立川基地は軍需工場だったので戦時中爆撃を受けた)に泊まり込むのは気味が悪い、代わりが来てくれて助かった.....」と話す前任者の言葉を聞きながら、キノコ隊長のまなこは眼前に広がり波のようにうねるススキの草原に釘付けになったのだそうです。あれはゴールデンブラウンという色じゃないのかなと、絵描きらしく絵の具の色で説明してくれました。




立川基地のススキの海(C)芝公園公太郎



思い描いているんです、思い描いているんだよ

70歳になったら僕はすっかり老いぼれて
寝袋を抱いて子供のように眠っているだろう
だけど僕が死ぬときはどうか皆さん
枕元で僕を覗き込んだりしないで
僕はもうそんなところにいないんだから

きっとどこかの深い深い森の奥で
灰色の大ギツネのように昼寝中なのさ

それともアミガサタケの出る四月の立川基地の
広い広いススキの海の入り口あたり

僕はいつもとめどなくとめどなく
僕のギターを弾いてるだろう
(タイドプール「ハードレイン」詞:キノコの隊長)


崩壊跡(C)芝公園公太郎



基地内には警備員たちが「象の墓場」と呼んでいた、戦前からの木造工場の崩壊現場がありました。彼らの勤務開始時にはまだかろうじて建っていて、それが崩れる轟音を事務所で聞いたそうです。「無人の森で木の倒れる音はするのだろうか」という観念的な命題がありますが、なにかそれを思わせる話。当時は真っ白に退色した古材が一面に広がり、本当に象の墓場のようでした。この写真はかなり色が暗く鉄筋らしきものも見えるので、別の崩壊現場でしょうか。

塔 (C)芝公園公太郎

これは「エンジンテストルーム」と呼ばれていた塔。本当にエンジンテストを行った場所なのかは不明ですが、がらんどうで、飛行機の星型エンジンをかぽっとはめるのにいかにもぴったりなくぼみを持ち、音が漏れないようになのか窓がなく、真っ暗な塔でした。

巨大工場跡 (C)芝公園公太郎

こうした工場には戦前日本軍時代のものも残っており、調布基地関東村をなつかしみ往時の住民がときおり訪ねてくるのと同じように、立川基地には戦前「陸軍航空工廠」で働いていた人が来ることがあったそうです。おじいさんたちがかつて働いた工場の中で、ここで爆撃を受け死んだ友人の名を呼び肩を抱き合って号泣なんてことがあったとのこと。このフェンスで囲まれ時間が止まった場所というものは、人々の強い想いも囲み、いつまでも保管している気がします。

煙突と工場 (C)芝公園公太郎

3本のお化け煙突が立つ工場は食堂棟だったと思いますが、松任谷由実の「ランドリーゲート」から道が続くランドリー工場だったかもしれません。隊長に連れられ巨大飛行機工場、巨大エンジンテストルーム、巨大食堂棟、象の墓場、森にうずもれたプール、そしてシェルター(地下壕)と次々に見学しながら私は、えらいものを見てしまった、こりゃモンスターだと思っていました。立川基地は私たちが関わった米軍施設跡の中で最もスゴく、そして当然ながら最も戦争の色がつよく残っている場所でした。


こうした写真を見てあのときの鳥肌立つ気持ちを反芻しながら、キノコ隊長と相方の心は何歳になっても、ゴールデンブラウンの草原とアミガサタケのあるあの立川基地のランドスケープに帰っていくのだろうなと思います。アミガサタケは関東村にも出るスポットがあり、隊長から調布隊員への申し送りにも当然、その場所を観察し守れとの指示が含まれていました。実にうまかったな、アミガサタケのクリームシチュー。

続く> (終)さよなら関東村
 


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追憶の調布関東村(3)府中基地キノコの森
追憶の調布関東村(4)ゴールデンブラウンの立川基地
追憶の調布関東村(終)さよなら関東村
日記「立川基地の青春」(ランドリーゲイトの想い出)

2005/11/27

追憶の調布関東村(3)府中基地キノコの森

2005/11/27 by サカタ@カナダ

(3)府中基地キノコの森(1990-1994)


府中基地バードハウス前(1989年)
調布基地関東村での勤務開始時、基地警備先輩であるキノコの隊長はサカタ隊員の受け持ちとなった関東村構内(2000年から東京外語大)、関東村飛び地(現味の素スタジアム、当時はただの草っ原)、そして府中基地跡(2016年時点まだ現存)を案内し現地指導してくれました。


しかし、関東村構内では「この倒木にはいいエノキが出るんだ。こっちにはヒラタケが」と樹木のヘコミみたいなところばかり念入りに紹介し、飛び地の原っぱでは「ここは本州で唯一ニオウシメジが出た場所なんだ。また出るかもしれないから見逃さないよう注意」と申し送る。この隊長はいったい何のために仕事を教えてくれているのか、よく分からないのです。

彼とはバンドを通じて学生時代からの付き合いで、この頃は一緒にやったりもしていたのですが、遊んでいても音楽をやっていてもとにかく独創性がほとばしる骨柄で、仕事を共にしてもこれこの通り。本人はこれをまじめに言っているのだから恐れ入ります。

立川、府中、関東村の米軍基地跡に残された森は、なにしろ70年代から20年間フェンスに囲まれ人跡未踏の地なわけですから、都内平地とは思えぬキノコや野草の宝庫となっていました。その基地での警備仕事が契機となったのか、彼はこの頃写真機器を大量に買い込み、各基地跡を含む野山での探索→写真撮影→調理というキノコ道を究めつつありました。それがそのまま彼の蒸気機関車に石炭をくべ、現在は雑誌等にものを書く真のキノコ者となっているそうです(追記:2016年に彼は何冊目かの書籍を出しました。野外料理の美しい本)。歌もちゃんと歌ってるのかなあ。―――1・2・3・4、3・2・1・0。俺の気持ちは変わらないよ。




Funky Goods「府中基地跡(2003)」 ◆ 廃墟デフレスパイラル「○中米軍基地跡 (??年)」

さてその私のもう一つの管轄地であった府中基地跡は、波多利朗さん (Studio Pooh & Catty) の「Funky Goodsと、芝公園公太郎さんの「廃墟デフレスパイラルに写真が残されていました。

いずれも近年の撮影なので、私が知る頃と内部の様相はかなり変わっているのかもしれませんが、お二人は素晴らしい記録を残してくれ、その借用を快く許してくださいました。ありがとうございます。オリジナルページでそれぞれの写真に付けられた波多さん芝公園さんのキャプションが味わい深いので、上をクリックして元のページをぜひご覧ください。「Funky Goods」には調布関東村の 2005 年現在の姿も収められています。







府中基地内道路 (C)Studio Pooh & Catty
府中基地跡の構内は、木と草と落ち葉に侵食され狭まり、車で通れる箇所が限られた道路が走っています。立ち木が折れて構内道路に落ちると、次に除草業者が入り片付けてくれるまでそこは車で通れなくなってしまいます。その間警備員は車が入れないエリアを、徒歩でトボトボ巡回したのです。




バードハウス (C)Studio Pooh & Catty
南西のゲートから入ってすぐにあり外からも見える、隊員たちがバードハウスと呼んでいた巨大ながらんどうビルディング。元はなんだったのかまったく不明。4階相当吹き抜けのはるかな天井に多くの鳥たちが巣を作っており、足を踏み入れると「バサバサバサ・バサバサバサ」という威嚇的な羽音が虚空に響き渡って、ヒッチコック的な戦慄が味わえました。


 

緑の洪水(C)芝公園公太郎

府中基地では半端ではない勢いで緑が増殖しており、このように完全に草に埋もれ入れない建物も多数ありました。



緑の津波(C)芝公園公太郎
この調子ですからもう。草木の王国府中基地。日々拡大するジャングル。やはり日本は亜熱帯地域です。



ツタの館 (C)Studio Pooh Catty
このツタもすさまじい。小さな敷地の中にさまざまな種類の建物がありました。住宅、工場にオフィスなどもあり、書類や資料が散乱している部屋もありました。建物はなぜか調布より傷みが激しく、部分的に床が抜けて危ない箇所も。



秘密の花園 (C)サカタ1989年
春夏にはこうした草木が実に色鮮やかで美しく、さまざまな花が誰にも知られず咲き誇る秘密の花園となっていました。府中基地に行く前にはいつも食料を仕込み、誰にも知られぬ草木の中で警備車を止め昼食を摂るのを楽しみにしていました。




双子のパラボラ (C)Studio Pooh & Catty

キノコ隊長に案内されて初めてこの場所に来、上記のバードハウスやこのあらぬ方向を向いて立っている巨大パラボラを見たときには、大きな衝撃を受けました。すごい。なんだこれは。近隣民家からわずか数百mの場所に建っている、異様なしろもの。




パラボラの謎 (C)Studio Pooh & Catty
このパラボラは使用はされていなかったようです。右の電波塔はまだ米軍により使用され、警備員も立ち入れないようになっていました。しかしこの、誰しもがショックを受けるだろう皿の大きさよ。

居住区ゆえ残されたものが集合住宅だけだった関東村よりも、このように建造物もバラエティに富み雑然とした府中の方が、廃墟としてはずっと面白いものでした。

構内をこうして一通り案内した後キノコ隊長は、初めてこれらを目にして興奮したサカタ隊員を満足げに眺め、南西の森の中にある邸宅群の前に連れて行きました。高級将校用らしきそれらの邸宅は、今私がカナダに住んでいてもあまりお目にかからないような、ガラスのサンルームに暖炉が作りつけてあったりするレトロな豪邸でした。美しい。そして隊長は言うのです。

このあたりにはオオイチョウタケっていう最高級キノコが出たことがあるから、見逃さないよう........あ! あった!」オオイチョウタケそのものの群生が、そのときそこにあったのでした。俺たちはまるで、夢の中を笑いながら歩いているみたいだ。



それから2年余が経ち、調布と府中基地の段階的取り壊しが決まり解体が始まった93年冬、ある日の巡回であの邸宅群が一気に解体され消滅したのを見たときには、実にはなはだしくガックリきました。なんてことだ。あんなに美しかったのに。キノコの森も、ブルドーザに踏みにじられてしまったよ。






これは作者不詳のアーティストが、府中基地にどれほどの日数か侵入し続け、廃品をペンキで固めコツコツと作り上げたと思われる芸術作品です。私が府中に入ったときにはすでに完成し、その後手が加えられる様子はありませんでした。

この写真があったサイトは消滅して ikkou.info というサイト作者様の連絡先も分からないのですが、撮影日付は 2005-02-11 らしい。するとアトリエになっていたこの建物は、現在もまだ府中に残っているということになります。するとあのレトロ邸たちは壊されたけれど、そこからバードハウスに向かった地点にあるこれらの建造物は94年以降も、意外にも解体されてないのだろうか。今は誰が警備をやっているのだろう。やはり若く金のないバンド野郎とかなんだろうか.....と、いろいろなことに思いを巡らせてくれる1枚の写真です。

【2016年追記】

 

あのオオイチョウタケを見つけた夕方撮った写真を、日本帰国時に実家に残した古いアルバムから見つけました。うれしそうにキノコを見せる私が座っていたバードハウス内の椅子は、20余年後もそのままあそこにあることを、ネットで見つけたこの写真で知りました。本当に時が止まった場所だ。


そして府中基地の写真決定版というべきサイトにも出会いました。廃墟写真集を出されている日本在住フランス人写真家ジョーディ・ミオウさんの「府中空軍基地廃墟」。デジタル処理された尖った写真に唸ります。ああすべての屋内写真と落書きに見覚えがある!



(2016年、サイト移行と改訂)

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日記「立川基地の青春」(ランドリーゲイトの想い出)

2005/11/26

追憶の調布関東村(2)関東村のシクスティーズ

2005/11/26 by サカタ@カナダ

(2)関東村のシクスティーズ(1965-1973)

「関東村」Google 巡りをさらに続けていくと、驚いたことに60~70年代に調布基地関東村で高校時代を過ごした人々が30年以上経った現在も校友会 (Chofu.org) を運営し、米国本土で同窓会を続けていることが判明。多くの会員が熱烈に往時を懐かしがっており、Chofu という文字と校章の入ったピンバッジやパーカまで販売しちゃってるのです。

高校大学の同窓会など音沙汰ないわが身を思うと信じがたいほどの熱意なわけですが、この Chofu.org のアルバムエリアに置かれたチアリーダーとかバンドとか卒業パーティの写真を眺めるにつけ、うーんすごいなーと嘆息します。立川基地が全盛期は完全にアメリカであったという話はよく聞きますが、関東村内部も幻のアメリカだったのですねえ。

写真をクリックすると Chofu.org のページに飛びます。もう1つの「Dragon's Roar」はどういう人が作っているのか分からないのですが、昔の日本の写真をコレクトしているサイトのようです。




【調布ハイスクール】


チアリーダーとシクスティーズバンド (C)Chofu.org

これが調布とは。いわれないと絶対に分からない(笑)。

 
プロム(卒業舞踏会) (C)Chofu.org
こんなところまでも完全にアメリカ式でしたのね。なんか、たとえ世界の僻地に赴任していても、子供らに非アメリカ的な思いはさせたくないといった、親たちの思いがあったのじゃないかと想像させられます。



卒業アルバム (C)Chofu.org
卒業アルバムは日米同じようなものでした。Chofu.org では5年分のアルバムをスキャンして掲載しています。そういうところが本当に熱い校友会です。

◇   ◇   ◇   ◇  

【関東村の暮らし】 


関東村リビングルーム  (C)Dragon's Roar
  質素で快適そうな往時の関東村住居風景。廃墟化しても間取りは同じでしたが、返還後こうした家具は一切残っていませんでした。


関東村売店  (C)Dragon's Roar

ここであのキャンベルの缶スープなどを購入していたのでしょうか。当時の住人によれば当時は1ドル 360 円だったので、基地の外では子供の小遣い程度でも豪勢な買い物ができてうれしかったそうです。

 
関東村シアター (C)Dragon's Roar
立川基地黄金時代にスティービーワンダーが慰問でやってきたという伝説がありますが、関東村のシアターは映画だけだったのでしょうか。


関東村プール  (C)Dragon's Roar
このプールは関東村が消えるその最後まで、このまま存在しました。余生はカエルの王国になっていました。





←Chofu.org には1965年頃の関東村全図が載っていますが(全体表示)、実は私が管理していたのはこの地図の左上住宅部、左下の幼稚園・プール・小学校までに過ぎず、右下(南東部)にあったという中学、高校、教会、シアター、マーケット、コミュニティセンターその他の大型施設はすべて、日本に返還後いつの時点でかサラ地にされ残っていませんでした(79年の航空写真ではすでにサラ地になっていた)。

―――そうかこんなに大きな「町」だったのか。警備員当時は知らなかった事実がどんどん分かるインターネット時代。この町で上の写真のようなシーンをはじめ、さまざまに素晴らしい思い出があったんだろうなあ。実際この校友会の掲示板で、当時好きだった女の子の消息を尋ねる人とかたくさんいるし。

私が警備をしていた頃も、「昔ここに住んでいたのですが、中を見せてくれませんか」といって旧住民がときおり訪れました。たいてい70年代は小学生ほどだった年頃の方々でしたが、特例として入場を認め、地図左下に写っている幼稚園、小学校、上の写真のカエルプールといった、関東村最後の名残施設に案内しました。

「グレード6(小6)のときはここのクラスで、このプールで泳いだんだよ! ここで友達とフェンスを破って脱走してさ!」

などと彼らは、押し寄せるノスタルジアにものすごく興奮していたのです。

後から廃墟遺跡として見れば、住宅棟しかなかった関東村よりも軍事施設だった近くの府中基地跡の方がずっとエキサイティングだったのですが、人々の青春と思い出は関東村にあったのだということを、この写真たちは語っています。こうして失われた旧職場の姿を発見して興奮している自分も、寄せる思いの熱さは同じなのです。

続く> (3)府中基地キノコの森




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2005/11/25

追憶の調布関東村(1)関東村最後の日々

(1)関東村最後の日々(1990-1994)

わたくしサカタは 1994 年にカナダに来るまで、旧米軍家族居住区だった「調布基地関東村跡(東京都府中市)」という広大な住宅廃墟群の住み込み警備員を3年余やっていたのですが、こないだ久しぶりにその頃の夢を見て目を覚ましました。


懐かしさに朝イチで「関東村」と検索してみると、えらいページに遭遇。私が警備をやめる前年に不法侵入を発見し捕まえ退出いただいた、まさにそのカメラマン氏のページがいきなりトップで出てきたのです。←こちらがそのサイト、タクラマ館の該当ページ。文中「犬を連れて巡回していた警備員に見とがめられ」というのがこの私。犬とは忠実なる警備犬ビコ号のことであります。いやはや、嘘のような偶然のおどろき。

彼のページには、捕まった時点までに彼が撮影した美麗な写真の数々がありました。懐かしすぎる10数年前の我が職場、今はもうないこの村。写真の腕前も素晴らしい。あのとき捕まえず、もっといろんな施設を撮っておいてもらえばよかった。

さっそくタクラマ館主に連絡してこのすごい偶然を伝え、いくつかの写真の利用許可をいただきました。館主も、10年&太平洋を隔てたこの再会にびっくりだそうです。ありがとうございます、タクラマ館館主様。






センター道路 (旧称 Fuchu Avenue)


この南北1kmのセンター道路が貫くゴーストタウンを、隊員と警備犬ビコ号は日夜巡回し、侵入をもくろむタクラマ館主ら廃墟愛好者たち、廃墟の危険を知らぬ近所の子供ら、あるいは勝手に犬を放し「ドッグラン」として使うジジババ(別記事「恐怖のボクサー犬」参照)らと戦っていたのです。まあ夜は暗黒の恐ろしいところなので人が来ることは一度もありませんでしたが。

月の夜の巡回時などは東に広がる荒れ地と巨大な柳と月のコントラストがあまりにも物凄く、ビコ号と共にいつまでも呆然と空を眺めたりしていました。ケイトブッシュの「Wuthering Heights(嵐が丘)」が、頭の中でガンガンと鳴っていました。



屋上ガーデン

ツタに侵食されたこうした建物が、当時でも100棟近く残されていました。この建物は私が初めてこの場所に入ったときに、後述する「キノコの隊長」が案内してくれた棟かもしれません。『屋上ガーデン』と呼ばれた緑に侵食されたこのテラスで、私らは2人弁当を食べたのです。「信じられないよ。本当に俺がこんなすごいところで働くなんて」と、私は声を震わせて。




ボイラー工場 (Boiler Plant)

これは関東村に当時残された中で最大の施設、ボイラー工場。中は巨大なボイラーと配管だらけです。左手にこんもりと見えるブッシュ下に隠された貯水槽とこのボイラーが、関東村全域にお湯を給湯していたと思われます。

この写真は調布の冬の空の色までも見事に写し撮っていて、この日この場所にいた私はこの1枚に、激しく胸を動かされます。



消防署から

もう一つの大型施設消防署跡の2階から南東を望んだ図。武蔵野の冬の森。家々の間はすべてこうしたブッシュと雑木と落ち葉に埋め尽くされ、キジやウサギが生息していました。消防署跡は残念ながら、ハシゴ以外何も残らぬがらんどうのビルディングでした。


住宅内部と警備事務所

建物内部はこの通り、惨憺たるありさま。立川基地(後述)はまだ使える古い建物が残っていたためその屋内に警備事務所が設置されていたのですが、関東村は全建造物がこのように窓もなく風雨に耐えられない状態だったので、プレファブ事務所設置となりました。電気と電話だけが通じ、水道は敷地内にないため、隊員が各自家からタンクで水を持ち込みました。冬はとてつもなく寒く、夏は恐ろしく暑いその事務所に、警備犬ビコと警備隊員2名は交替で寝泊まりしていたのです。冬はよく風邪をひいたなあ。


朝日町通り側フェンス

このフェンスを乗り越え、あるいはペンチで穴を開けて廃墟マニアたちが忍び込み、警備隊員は彼らを捕らえてはフェンスを修復していました。この写真も、この中で3年間暮らした私にはたまらないアングルで捉えられています。道路を挟んで右側にパン屋があり、そこの鳥そぼろサンドイッチが私の常食でした。

現在はこの関東村跡地に、東京外国語大学と警察大学が建てられているのだそうです(味の素スタジアムは、当時誰も入れない草ぼうぼうの荒れ地だった飛び地に建立)。建物の解体は、この93年から本格化していました。




こうした基地跡警備の仕事は、多摩では知られた野外活動型ブルースシンガーだったキノコの隊長という人物が、天の配材というものか80年代に草深い立川基地跡警備の仕事についたことから、当方にも縁が生まれました。旧基地関連施設で警備仕事の空きができるごとに、彼が貧窮する多摩のバンド野郎たちを警備会社に紹介してくれたのです(※我々下っ端警備員は、警備会社での研修と教育実習の後に現場配備された)。1990 年に調布関東村に警備事務所が新設されることが決まった時点で声がかかり、私は宝くじに当たったような幸運な思いでこの仕事を得たのでした。東京にいながら森の中で働けるなんて。なんてことだ。すごいぜ。

住み込み警備は24時間勤務で翌日パートナーと交替というローテでしたが、巡回パトロールとフェンスの修繕とレポート書きさえしっかりやれば自由になる時間も大量にあり(施設内に常駐すること自体が不測の事態に備えた仕事となる)、私は事務所にギターやら本やらキャンプ調理器具やらを持ち込んで、仕事と野営が渾然一体となった生活を追求していました。

当時私が打ち込んでいたのは英語学習とネットでのコミュニケーション(当時は当然インターネットはなく Nifty-Serve)で、さまざまな英語教材を警備事務所に持ち込み、犬以外誰もいないのをいいことに大声で発音練習を重ね、独学でけっこう英語が話せるようになりました。初めて現配偶者に会ったときに話ができたのも、現在カナダに住み翻訳をやっていられるのも、この基地に流れていた悠久のときの流れのおかげなのです。

資料によると、関東村は65年に作られ、73年に日本に返還されたとのこと。つまりこれらの建物はわずか10年も使われず、その後20年間は放置されていたことになります。が戦後の日本は米軍住宅群を作って住宅技術開発につなげたのだというし、サカタ隊員たち貧乏なバンド青年も廃墟警備仕事のおかげで食いつなぎ未来につなげられたわけで、まったくの無駄ではなかったのですね。





かつての住民が旧施設名を付記した関東村の航空写真。写真は私が働いていた頃のものです。

(2016年:掲載サイト移行と写真の追加)


続く> (2)調布関東村のシクスティーズ




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