2005/11/30

追憶の調布関東村(4)ゴールデンブラウンの立川基地

05/11/30 by サカタ@カナダ
(4)ゴールデンブラウンの立川基地

芝公園公太郎さんの「廃墟デフレスパイラル」から写真をお借りして、立川基地についても少し書き留めておきたいと思います。油写真館「立川基地の廃墟」というサイト、および「米軍立川基地の残骸」というサイトにも、印象的な写真が多数残されています。



立川基地跡はキノコの隊長と、彼の古い友人である相方が受け持っていました。勤務が決まって初めて立川基地に入ったとき、「こんな戦場跡(立川基地は軍需工場だったので戦時中爆撃を受けた)に泊まり込むのは気味が悪い、代わりが来てくれて助かった.....」と話す前任者の言葉を聞きながら、キノコ隊長のまなこは眼前に広がり波のようにうねるススキの草原に釘付けになったのだそうです。あれはゴールデンブラウンという色じゃないのかなと、絵描きらしく絵の具の色で説明してくれました。




立川基地のススキの海(C)芝公園公太郎



思い描いているんです、思い描いているんだよ

70歳になったら僕はすっかり老いぼれて
寝袋を抱いて子供のように眠っているだろう
だけど僕が死ぬときはどうか皆さん
枕元で僕を覗き込んだりしないで
僕はもうそんなところにいないんだから

きっとどこかの深い深い森の奥で
灰色の大ギツネのように昼寝中なのさ

それともアミガサタケの出る四月の立川基地の
広い広いススキの海の入り口あたり

僕はいつもとめどなくとめどなく
僕のギターを弾いてるだろう
(タイドプール「ハードレイン」詞:キノコの隊長)


崩壊跡(C)芝公園公太郎



基地内には警備員たちが「象の墓場」と呼んでいた、戦前からの木造工場の崩壊現場がありました。彼らの勤務開始時にはまだかろうじて建っていて、それが崩れる轟音を事務所で聞いたそうです。「無人の森で木の倒れる音はするのだろうか」という観念的な命題がありますが、なにかそれを思わせる話。当時は真っ白に退色した古材が一面に広がり、本当に象の墓場のようでした。この写真はかなり色が暗く鉄筋らしきものも見えるので、別の崩壊現場でしょうか。

塔 (C)芝公園公太郎

これは「エンジンテストルーム」と呼ばれていた塔。本当にエンジンテストを行った場所なのかは不明ですが、がらんどうで、飛行機の星型エンジンをかぽっとはめるのにいかにもぴったりなくぼみを持ち、音が漏れないようになのか窓がなく、真っ暗な塔でした。

巨大工場跡 (C)芝公園公太郎

こうした工場には戦前日本軍時代のものも残っており、調布基地関東村をなつかしみ往時の住民がときおり訪ねてくるのと同じように、立川基地には戦前「陸軍航空工廠」で働いていた人が来ることがあったそうです。おじいさんたちがかつて働いた工場の中で、ここで爆撃を受け死んだ友人の名を呼び肩を抱き合って号泣なんてことがあったとのこと。このフェンスで囲まれ時間が止まった場所というものは、人々の強い想いも囲み、いつまでも保管している気がします。

煙突と工場 (C)芝公園公太郎

3本のお化け煙突が立つ工場は食堂棟だったと思いますが、松任谷由実の「ランドリーゲート」から道が続くランドリー工場だったかもしれません。隊長に連れられ巨大飛行機工場、巨大エンジンテストルーム、巨大食堂棟、象の墓場、森にうずもれたプール、そしてシェルター(地下壕)と次々に見学しながら私は、えらいものを見てしまった、こりゃモンスターだと思っていました。立川基地は私たちが関わった米軍施設跡の中で最もスゴく、そして当然ながら最も戦争の色がつよく残っている場所でした。


こうした写真を見てあのときの鳥肌立つ気持ちを反芻しながら、キノコ隊長と相方の心は何歳になっても、ゴールデンブラウンの草原とアミガサタケのあるあの立川基地のランドスケープに帰っていくのだろうなと思います。アミガサタケは関東村にも出るスポットがあり、隊長から調布隊員への申し送りにも当然、その場所を観察し守れとの指示が含まれていました。実にうまかったな、アミガサタケのクリームシチュー。

続く> (終)さよなら関東村
 


【関連記事】
追憶の調布関東村(1)関東村最後の日々
追憶の調布関東村(2)関東村のシクスティーズ
追憶の調布関東村(3)府中基地キノコの森
追憶の調布関東村(4)ゴールデンブラウンの立川基地
追憶の調布関東村(終)さよなら関東村
日記「立川基地の青春」(ランドリーゲイトの想い出)

2005/11/27

追憶の調布関東村(3)府中基地キノコの森

2005/11/27 by サカタ@カナダ

(3)府中基地キノコの森(1990-1994)


府中基地バードハウス前(1989年)
調布基地関東村での勤務開始時、基地警備先輩であるキノコの隊長はサカタ隊員の受け持ちとなった関東村構内(2000年から東京外語大)、関東村飛び地(現味の素スタジアム、当時はただの草っ原)、そして府中基地跡(2016年時点まだ現存)を案内し現地指導してくれました。


しかし、関東村構内では「この倒木にはいいエノキが出るんだ。こっちにはヒラタケが」と樹木のヘコミみたいなところばかり念入りに紹介し、飛び地の原っぱでは「ここは本州で唯一ニオウシメジが出た場所なんだ。また出るかもしれないから見逃さないよう注意」と申し送る。この隊長はいったい何のために仕事を教えてくれているのか、よく分からないのです。

彼とはバンドを通じて学生時代からの付き合いで、この頃は一緒にやったりもしていたのですが、遊んでいても音楽をやっていてもとにかく独創性がほとばしる骨柄で、仕事を共にしてもこれこの通り。本人はこれをまじめに言っているのだから恐れ入ります。

立川、府中、関東村の米軍基地跡に残された森は、なにしろ70年代から20年間フェンスに囲まれ人跡未踏の地なわけですから、都内平地とは思えぬキノコや野草の宝庫となっていました。その基地での警備仕事が契機となったのか、彼はこの頃写真機器を大量に買い込み、各基地跡を含む野山での探索→写真撮影→調理というキノコ道を究めつつありました。それがそのまま彼の蒸気機関車に石炭をくべ、現在は雑誌等にものを書く真のキノコ者となっているそうです(追記:2016年に彼は何冊目かの書籍を出しました。野外料理の美しい本)。歌もちゃんと歌ってるのかなあ。―――1・2・3・4、3・2・1・0。俺の気持ちは変わらないよ。




Funky Goods「府中基地跡(2003)」 ◆ 廃墟デフレスパイラル「○中米軍基地跡 (??年)」

さてその私のもう一つの管轄地であった府中基地跡は、波多利朗さん (Studio Pooh & Catty) の「Funky Goodsと、芝公園公太郎さんの「廃墟デフレスパイラルに写真が残されていました。

いずれも近年の撮影なので、私が知る頃と内部の様相はかなり変わっているのかもしれませんが、お二人は素晴らしい記録を残してくれ、その借用を快く許してくださいました。ありがとうございます。オリジナルページでそれぞれの写真に付けられた波多さん芝公園さんのキャプションが味わい深いので、上をクリックして元のページをぜひご覧ください。「Funky Goods」には調布関東村の 2005 年現在の姿も収められています。







府中基地内道路 (C)Studio Pooh & Catty
府中基地跡の構内は、木と草と落ち葉に侵食され狭まり、車で通れる箇所が限られた道路が走っています。立ち木が折れて構内道路に落ちると、次に除草業者が入り片付けてくれるまでそこは車で通れなくなってしまいます。その間警備員は車が入れないエリアを、徒歩でトボトボ巡回したのです。




バードハウス (C)Studio Pooh & Catty
南西のゲートから入ってすぐにあり外からも見える、隊員たちがバードハウスと呼んでいた巨大ながらんどうビルディング。元はなんだったのかまったく不明。4階相当吹き抜けのはるかな天井に多くの鳥たちが巣を作っており、足を踏み入れると「バサバサバサ・バサバサバサ」という威嚇的な羽音が虚空に響き渡って、ヒッチコック的な戦慄が味わえました。


 

緑の洪水(C)芝公園公太郎

府中基地では半端ではない勢いで緑が増殖しており、このように完全に草に埋もれ入れない建物も多数ありました。



緑の津波(C)芝公園公太郎
この調子ですからもう。草木の王国府中基地。日々拡大するジャングル。やはり日本は亜熱帯地域です。



ツタの館 (C)Studio Pooh Catty
このツタもすさまじい。小さな敷地の中にさまざまな種類の建物がありました。住宅、工場にオフィスなどもあり、書類や資料が散乱している部屋もありました。建物はなぜか調布より傷みが激しく、部分的に床が抜けて危ない箇所も。



秘密の花園 (C)サカタ1989年
春夏にはこうした草木が実に色鮮やかで美しく、さまざまな花が誰にも知られず咲き誇る秘密の花園となっていました。府中基地に行く前にはいつも食料を仕込み、誰にも知られぬ草木の中で警備車を止め昼食を摂るのを楽しみにしていました。




双子のパラボラ (C)Studio Pooh & Catty

キノコ隊長に案内されて初めてこの場所に来、上記のバードハウスやこのあらぬ方向を向いて立っている巨大パラボラを見たときには、大きな衝撃を受けました。すごい。なんだこれは。近隣民家からわずか数百mの場所に建っている、異様なしろもの。




パラボラの謎 (C)Studio Pooh & Catty
このパラボラは使用はされていなかったようです。右の電波塔はまだ米軍により使用され、警備員も立ち入れないようになっていました。しかしこの、誰しもがショックを受けるだろう皿の大きさよ。

居住区ゆえ残されたものが集合住宅だけだった関東村よりも、このように建造物もバラエティに富み雑然とした府中の方が、廃墟としてはずっと面白いものでした。

構内をこうして一通り案内した後キノコ隊長は、初めてこれらを目にして興奮したサカタ隊員を満足げに眺め、南西の森の中にある邸宅群の前に連れて行きました。高級将校用らしきそれらの邸宅は、今私がカナダに住んでいてもあまりお目にかからないような、ガラスのサンルームに暖炉が作りつけてあったりするレトロな豪邸でした。美しい。そして隊長は言うのです。

このあたりにはオオイチョウタケっていう最高級キノコが出たことがあるから、見逃さないよう........あ! あった!」オオイチョウタケそのものの群生が、そのときそこにあったのでした。俺たちはまるで、夢の中を笑いながら歩いているみたいだ。



それから2年余が経ち、調布と府中基地の段階的取り壊しが決まり解体が始まった93年冬、ある日の巡回であの邸宅群が一気に解体され消滅したのを見たときには、実にはなはだしくガックリきました。なんてことだ。あんなに美しかったのに。キノコの森も、ブルドーザに踏みにじられてしまったよ。






これは作者不詳のアーティストが、府中基地にどれほどの日数か侵入し続け、廃品をペンキで固めコツコツと作り上げたと思われる芸術作品です。私が府中に入ったときにはすでに完成し、その後手が加えられる様子はありませんでした。

この写真があったサイトは消滅して ikkou.info というサイト作者様の連絡先も分からないのですが、撮影日付は 2005-02-11 らしい。するとアトリエになっていたこの建物は、現在もまだ府中に残っているということになります。するとあのレトロ邸たちは壊されたけれど、そこからバードハウスに向かった地点にあるこれらの建造物は94年以降も、意外にも解体されてないのだろうか。今は誰が警備をやっているのだろう。やはり若く金のないバンド野郎とかなんだろうか.....と、いろいろなことに思いを巡らせてくれる1枚の写真です。

【2016年追記】

 

あのオオイチョウタケを見つけた夕方撮った写真を、日本帰国時に実家に残した古いアルバムから見つけました。うれしそうにキノコを見せる私が座っていたバードハウス内の椅子は、20余年後もそのままあそこにあることを、ネットで見つけたこの写真で知りました。本当に時が止まった場所だ。


そして府中基地の写真決定版というべきサイトにも出会いました。廃墟写真集を出されている日本在住フランス人写真家ジョーディ・ミオウさんの「府中空軍基地廃墟」。デジタル処理された尖った写真に唸ります。ああすべての屋内写真と落書きに見覚えがある!



(2016年、サイト移行と改訂)

続く> (4)ゴールデンブラウンの立川基地



【関連記事】
追憶の調布関東村(1)関東村最後の日々
追憶の調布関東村(2)関東村のシクスティーズ
追憶の調布関東村(4)ゴールデンブラウンの立川基地
追憶の調布関東村(終)さよなら関東村
日記「立川基地の青春」(ランドリーゲイトの想い出)

2005/11/26

追憶の調布関東村(2)関東村のシクスティーズ

2005/11/26 by サカタ@カナダ

(2)関東村のシクスティーズ(1965-1973)

「関東村」Google 巡りをさらに続けていくと、驚いたことに60~70年代に調布基地関東村で高校時代を過ごした人々が30年以上経った現在も校友会 (Chofu.org) を運営し、米国本土で同窓会を続けていることが判明。多くの会員が熱烈に往時を懐かしがっており、Chofu という文字と校章の入ったピンバッジやパーカまで販売しちゃってるのです。

高校大学の同窓会など音沙汰ないわが身を思うと信じがたいほどの熱意なわけですが、この Chofu.org のアルバムエリアに置かれたチアリーダーとかバンドとか卒業パーティの写真を眺めるにつけ、うーんすごいなーと嘆息します。立川基地が全盛期は完全にアメリカであったという話はよく聞きますが、関東村内部も幻のアメリカだったのですねえ。

写真をクリックすると Chofu.org のページに飛びます。もう1つの「Dragon's Roar」はどういう人が作っているのか分からないのですが、昔の日本の写真をコレクトしているサイトのようです。




【調布ハイスクール】


チアリーダーとシクスティーズバンド (C)Chofu.org

これが調布とは。いわれないと絶対に分からない(笑)。

 
プロム(卒業舞踏会) (C)Chofu.org
こんなところまでも完全にアメリカ式でしたのね。なんか、たとえ世界の僻地に赴任していても、子供らに非アメリカ的な思いはさせたくないといった、親たちの思いがあったのじゃないかと想像させられます。



卒業アルバム (C)Chofu.org
卒業アルバムは日米同じようなものでした。Chofu.org では5年分のアルバムをスキャンして掲載しています。そういうところが本当に熱い校友会です。

◇   ◇   ◇   ◇  

【関東村の暮らし】 


関東村リビングルーム  (C)Dragon's Roar
  質素で快適そうな往時の関東村住居風景。廃墟化しても間取りは同じでしたが、返還後こうした家具は一切残っていませんでした。


関東村売店  (C)Dragon's Roar

ここであのキャンベルの缶スープなどを購入していたのでしょうか。当時の住人によれば当時は1ドル 360 円だったので、基地の外では子供の小遣い程度でも豪勢な買い物ができてうれしかったそうです。

 
関東村シアター (C)Dragon's Roar
立川基地黄金時代にスティービーワンダーが慰問でやってきたという伝説がありますが、関東村のシアターは映画だけだったのでしょうか。


関東村プール  (C)Dragon's Roar
このプールは関東村が消えるその最後まで、このまま存在しました。余生はカエルの王国になっていました。





←Chofu.org には1965年頃の関東村全図が載っていますが(全体表示)、実は私が管理していたのはこの地図の左上住宅部、左下の幼稚園・プール・小学校までに過ぎず、右下(南東部)にあったという中学、高校、教会、シアター、マーケット、コミュニティセンターその他の大型施設はすべて、日本に返還後いつの時点でかサラ地にされ残っていませんでした(79年の航空写真ではすでにサラ地になっていた)。

―――そうかこんなに大きな「町」だったのか。警備員当時は知らなかった事実がどんどん分かるインターネット時代。この町で上の写真のようなシーンをはじめ、さまざまに素晴らしい思い出があったんだろうなあ。実際この校友会の掲示板で、当時好きだった女の子の消息を尋ねる人とかたくさんいるし。

私が警備をしていた頃も、「昔ここに住んでいたのですが、中を見せてくれませんか」といって旧住民がときおり訪れました。たいてい70年代は小学生ほどだった年頃の方々でしたが、特例として入場を認め、地図左下に写っている幼稚園、小学校、上の写真のカエルプールといった、関東村最後の名残施設に案内しました。

「グレード6(小6)のときはここのクラスで、このプールで泳いだんだよ! ここで友達とフェンスを破って脱走してさ!」

などと彼らは、押し寄せるノスタルジアにものすごく興奮していたのです。

後から廃墟遺跡として見れば、住宅棟しかなかった関東村よりも軍事施設だった近くの府中基地跡の方がずっとエキサイティングだったのですが、人々の青春と思い出は関東村にあったのだということを、この写真たちは語っています。こうして失われた旧職場の姿を発見して興奮している自分も、寄せる思いの熱さは同じなのです。

続く> (3)府中基地キノコの森




【関連記事】
追憶の調布関東村(1)関東村最後の日々
追憶の調布関東村(3)府中基地キノコの森
追憶の調布関東村(4)ゴールデンブラウンの立川基地
追憶の調布関東村(終)さよなら関東村
日記「立川基地の青春」(ランドリーゲイトの想い出)

2005/11/25

追憶の調布関東村(1)関東村最後の日々

(1)関東村最後の日々(1990-1994)

わたくしサカタは 1994 年にカナダに来るまで、旧米軍家族居住区だった「調布基地関東村跡(東京都府中市)」という広大な住宅廃墟群の住み込み警備員を3年余やっていたのですが、こないだ久しぶりにその頃の夢を見て目を覚ましました。


懐かしさに朝イチで「関東村」と検索してみると、えらいページに遭遇。私が警備をやめる前年に不法侵入を発見し捕まえ退出いただいた、まさにそのカメラマン氏のページがいきなりトップで出てきたのです。←こちらがそのサイト、タクラマ館の該当ページ。文中「犬を連れて巡回していた警備員に見とがめられ」というのがこの私。犬とは忠実なる警備犬ビコ号のことであります。いやはや、嘘のような偶然のおどろき。

彼のページには、捕まった時点までに彼が撮影した美麗な写真の数々がありました。懐かしすぎる10数年前の我が職場、今はもうないこの村。写真の腕前も素晴らしい。あのとき捕まえず、もっといろんな施設を撮っておいてもらえばよかった。

さっそくタクラマ館主に連絡してこのすごい偶然を伝え、いくつかの写真の利用許可をいただきました。館主も、10年&太平洋を隔てたこの再会にびっくりだそうです。ありがとうございます、タクラマ館館主様。






センター道路 (旧称 Fuchu Avenue)


この南北1kmのセンター道路が貫くゴーストタウンを、隊員と警備犬ビコ号は日夜巡回し、侵入をもくろむタクラマ館主ら廃墟愛好者たち、廃墟の危険を知らぬ近所の子供ら、あるいは勝手に犬を放し「ドッグラン」として使うジジババ(別記事「恐怖のボクサー犬」参照)らと戦っていたのです。まあ夜は暗黒の恐ろしいところなので人が来ることは一度もありませんでしたが。

月の夜の巡回時などは東に広がる荒れ地と巨大な柳と月のコントラストがあまりにも物凄く、ビコ号と共にいつまでも呆然と空を眺めたりしていました。ケイトブッシュの「Wuthering Heights(嵐が丘)」が、頭の中でガンガンと鳴っていました。



屋上ガーデン

ツタに侵食されたこうした建物が、当時でも100棟近く残されていました。この建物は私が初めてこの場所に入ったときに、後述する「キノコの隊長」が案内してくれた棟かもしれません。『屋上ガーデン』と呼ばれた緑に侵食されたこのテラスで、私らは2人弁当を食べたのです。「信じられないよ。本当に俺がこんなすごいところで働くなんて」と、私は声を震わせて。




ボイラー工場 (Boiler Plant)

これは関東村に当時残された中で最大の施設、ボイラー工場。中は巨大なボイラーと配管だらけです。左手にこんもりと見えるブッシュ下に隠された貯水槽とこのボイラーが、関東村全域にお湯を給湯していたと思われます。

この写真は調布の冬の空の色までも見事に写し撮っていて、この日この場所にいた私はこの1枚に、激しく胸を動かされます。



消防署から

もう一つの大型施設消防署跡の2階から南東を望んだ図。武蔵野の冬の森。家々の間はすべてこうしたブッシュと雑木と落ち葉に埋め尽くされ、キジやウサギが生息していました。消防署跡は残念ながら、ハシゴ以外何も残らぬがらんどうのビルディングでした。


住宅内部と警備事務所

建物内部はこの通り、惨憺たるありさま。立川基地(後述)はまだ使える古い建物が残っていたためその屋内に警備事務所が設置されていたのですが、関東村は全建造物がこのように窓もなく風雨に耐えられない状態だったので、プレファブ事務所設置となりました。電気と電話だけが通じ、水道は敷地内にないため、隊員が各自家からタンクで水を持ち込みました。冬はとてつもなく寒く、夏は恐ろしく暑いその事務所に、警備犬ビコと警備隊員2名は交替で寝泊まりしていたのです。冬はよく風邪をひいたなあ。


朝日町通り側フェンス

このフェンスを乗り越え、あるいはペンチで穴を開けて廃墟マニアたちが忍び込み、警備隊員は彼らを捕らえてはフェンスを修復していました。この写真も、この中で3年間暮らした私にはたまらないアングルで捉えられています。道路を挟んで右側にパン屋があり、そこの鳥そぼろサンドイッチが私の常食でした。

現在はこの関東村跡地に、東京外国語大学と警察大学が建てられているのだそうです(味の素スタジアムは、当時誰も入れない草ぼうぼうの荒れ地だった飛び地に建立)。建物の解体は、この93年から本格化していました。




こうした基地跡警備の仕事は、多摩では知られた野外活動型ブルースシンガーだったキノコの隊長という人物が、天の配材というものか80年代に草深い立川基地跡警備の仕事についたことから、当方にも縁が生まれました。旧基地関連施設で警備仕事の空きができるごとに、彼が貧窮する多摩のバンド野郎たちを警備会社に紹介してくれたのです(※我々下っ端警備員は、警備会社での研修と教育実習の後に現場配備された)。1990 年に調布関東村に警備事務所が新設されることが決まった時点で声がかかり、私は宝くじに当たったような幸運な思いでこの仕事を得たのでした。東京にいながら森の中で働けるなんて。なんてことだ。すごいぜ。

住み込み警備は24時間勤務で翌日パートナーと交替というローテでしたが、巡回パトロールとフェンスの修繕とレポート書きさえしっかりやれば自由になる時間も大量にあり(施設内に常駐すること自体が不測の事態に備えた仕事となる)、私は事務所にギターやら本やらキャンプ調理器具やらを持ち込んで、仕事と野営が渾然一体となった生活を追求していました。

当時私が打ち込んでいたのは英語学習とネットでのコミュニケーション(当時は当然インターネットはなく Nifty-Serve)で、さまざまな英語教材を警備事務所に持ち込み、犬以外誰もいないのをいいことに大声で発音練習を重ね、独学でけっこう英語が話せるようになりました。初めて現配偶者に会ったときに話ができたのも、現在カナダに住み翻訳をやっていられるのも、この基地に流れていた悠久のときの流れのおかげなのです。

資料によると、関東村は65年に作られ、73年に日本に返還されたとのこと。つまりこれらの建物はわずか10年も使われず、その後20年間は放置されていたことになります。が戦後の日本は米軍住宅群を作って住宅技術開発につなげたのだというし、サカタ隊員たち貧乏なバンド青年も廃墟警備仕事のおかげで食いつなぎ未来につなげられたわけで、まったくの無駄ではなかったのですね。





かつての住民が旧施設名を付記した関東村の航空写真。写真は私が働いていた頃のものです。

(2016年:掲載サイト移行と写真の追加)


続く> (2)調布関東村のシクスティーズ




【関連記事】
追憶の調布関東村(2)調布関東村のシクスティーズ
追憶の調布関東村(3)府中基地キノコの森
追憶の調布関東村(4)ゴールデンブラウンの立川基地
追憶の調布関東村(終)さよなら関東村
日記「立川基地の青春」(ランドリーゲイトの想い出)


2005/11/18

日記「マンガ道場」

「トラックドライバーの1日」「ピアノの習い方」ほか。

=======================
■ 05/11/03(木) 11:33:16 □ マンガ道場
=======================

萌が朝やや鼻水と咳があったとのことで、スイミングはお休み。この秋皆が風邪をひいてるのは、エアクオリティのせいだとMが心配している。確かに俺も毎朝起きるとのどが痛い。Mの言うとおり、数年ぶりにヒーターのダクトを掃除してもらう必要があるのだろう。

----------------------

Moay drew a Japan map putting everything
she remembers in. Her grandma's house and
grandpa's car can be found at the
top left corner.
日本語スクール:今日は大雨で買い物に行くのも嫌なので、久々に授業参観する。ハロウィーンでは何になったのと雑談から授業は始まる。小学校クラスは幼稚園までと違い遊び要素が入らないので気の毒だなと思っていたのだが、みな元気に発言して学習に参加しており、こうして集まって日本語でクラスをやること自体が楽しいんだろうなと思う。どこの子も家でスクールごっこをやってるらしいし。

萌も元気に発言しているが、どうも「○のつく言葉は?」とクラスが進行しているあいだ、先生の言うことは聞きつつも「○のつく言葉」の絵を集中してカリカリと描いているらしい。それで毎週あんなにマンガ道場みたいな細密絵を持って帰ってくるのね。なるほどなあと納得の授業風景であった。



=======================
■ 05/11/04(金) 09:47:19 □ 家周りケア費用の憤り
=======================

ジムナスティックス:今日は床運動を長くやっている。この期間中にカートホイール(側転)とかできるようになるのかなあ。萌は楽し過ぎて調子に乗り、叱られスネたりしている。N先生は教職経験があるのかもしれない。子供の散漫な態度にはかなり厳しい。

俺たちが出ている間にダクトクリーニングが終わる。ということは1時間もやってないのだが、それで $234 だそうである。この家周りケア費用というのはすべてがこの調子で、来ただけで何もしなくても $150 あたりは消えていき、実費は半分以下ではないのかという猛烈な割高感が残る。熟練の技術者がまる一日働いたような額を、なんで単純作業1時間に対して払わねばならんのだと腹が立つ。

Mは仕事をしてるガイは最低賃金で働いてるのよ、仕方ないのよという。じゃこの馬鹿高い料金はどこへいくのかと問うと、機器を持つ会社のものになるのだそうだ。ここはそんな労働者搾取の国なのか? だいたいこんなに取れば、そんな機器なんてすぐさま減価償却できてしまうんじゃないのか? 前回の何もせず帰ったぼったくりドレイン掃除業者に続き、憤懣やるかたなし。

=======================
■ 05/11/06(日) 10:05:34 □ トラックドライバーの1日
=======================

ダクトクリーニングの効果はたしかにあり、皆のどが痛くなくなった。

今日は庭の粗大ゴミを捨てに行くため、AZ家からトラックをお借りする。昨日オーナーのTSさんが教習をしてくださったのだが、クラッチを普通に踏んでもまったく切れないなど想像以上にボロいトラックであった(汗)。ともあれ、さいわいにも今日は見事に雨がやんでくれた。日が射すのはいったい何日ぶりだ?今年はいつにもまして晴れ間が少ない秋である。

----------------------
MKとともに、まずは庭に長年置かれていた古カーペットや洪水時に出た廃材の廃棄に成功。よし。さらにまだ時間があるので、MKが3年前「もっと芝生を広くしたいだろう」と思いつきで庭のコンクリートエリアを破壊して以後、どうしようもなく放置されていた総計1トンのコンクリ片の山もついに片付ける。超スッキリ。よし。

しかしトラックの運転というのは本当にしんどい。仕事ならともかく、なんでこういうものを自家用車として乗っているオトコたちが多いのだろうと俺が不思議がると(借りたのは F-250 だが、1つ下の F-150 は自家用として世界一売れてるトラックらしい)、いまどきのトラックはAT・パワステ付きで乗用車と変わらないのだとMKはいう。そうだとしても、車体の動きがガコンガコンと人間を揺さぶって、とにかく疲れるのである。

----------------------
近所の川を渡ったところにあった廃棄所でコンクリートを捨てる。トラック重量から減った分の重さを量り対価($13)を払うだけの単純明快さ。カナダでは、こないだのダクト掃除など単純作業で人を雇うとえらい金額がかかり、また簡単で当たり前のことが店員等他人の不手際・不注意・やる気なさで一度で片付かず腹が立つことが多いが、こういう自分でやる系のこと(DIY 仕事)は、常に案ずるよりも簡単にカタがつく。そういう自助自立のお国柄なのであろう。

トラックを掃除して返し―――最終的にほぼ思い通りに動かせるようになったので自分の運転技術に感心した―――、ふーとトボトボ歩いて帰ってくると、疲れたろうと気を利かせたMが車で迎えに来てくれた。助手席に乗り込み走り出すと、うちの車はなんと快適で静かでやさしい乗り物なのだと感動してしまった。

=======================
■ 05/11/07(月) 17:30:42 □ ボルトン対トッテナム
=======================

萌を送って行った後、庭で昨日の後片付けをする。

ボルトン対トッテナム、中田は後半途中から入り、入った瞬間から鬼のようにボールを奪いまくっていた。正確には足の長さが足りず奪うまではいかないのだが、―――あ、行った! という感じの猛烈なダッシュで相手の足元に飛び込み、ボールを弾いて攻撃を止めてしまう。それをチームで最も頻繁にやってるのだから、サッカーシミュレーションで中田のパラメータを変えなきゃと思うくらいの、一皮むけた守備名人ぶりである。

これで攻撃でも仕事をすればすごいのだが、ボルトンは攻撃に関しては英代表に入るとの噂もあるノーラン(この試合のゴールもすごかった)とディウフにお任せという感じのチームなので、中田がフィニッシュに絡みそうな場面はなかった。中田が前後左右あらゆるところに顔を出しているので、ボールを奪いに行ったときの組織カバーなどがうまくできてるチームなのだと思うが、攻撃に専念しているノーランのような仕事は当然中田には回ってこない。

PKエリア付近でボールを奪って絶品なミドルパスを対角線に入れたシーンがあり、ギリギリで相手のクリアにあってしまった。あれが味方FWに届いていたら、中田の価値が活発なボール奪取からの起点作りだけではないのだと知らしめることができたのだが、惜しかった。まあああいう決定的な仕事ができるめぐり合わせが来るまでは、こうして足の振りの鋭さにただ者ではなさを漂わせる有能なMFとして仕事をしていくしかないだろう。

ただ、監督やチームメイトは当然中田の仕事の質の高さを分かっているだろうが、ファンにとっては点を取れる奴とドリブルで敵を抜ける奴が王様なのであり、その面では中田以上の選手はプレミアにもごろごろといるので、その点が残念ではある。

=======================
■ 05/11/10(木) 10:05:26 □ ライフべスト体験
=======================

萌のスイミングへ。今日は最初からベストを付けて深いプールに入る。十分な浮力があってまるで立っているみたいに浮き、萌たちは訓練されているのですぐさま手足を的確に動かして、2m先のハシゴに泳ぎつく。次にプールの対岸まで5m一気に泳ぎ、背泳で戻る。浮力があるとはいえ、いったん怖さからパニックを起こせばバランスを崩しあぶないなと見ていて緊張したのだが、萌も他の子たちも皆泳ぎ切っていた。うーん、地道な訓練の積み重ねはすごい。

ベストをはずして子供プールへ。萌はもうフロートを使うのを嫌がり、バタ足、クロール、平泳ぎと次々にトライしている。クロールが一番うまい。息継ぎができないので距離はまったく伸びないが、それ以外は完璧だ。レッスン以外でこの技術を実践する時間がないのがじつに残念。

=======================
■ 05/11/14(月) 13:12:13 □ ピアノの習い方
=======================

萌の学校の後Lちゃんのバースデイに呼ばれていく。最近萌が家でキーボードにかなり熱中しており、ピアノレッスンを受けさせるべきかと考えているので、ピアノを実際に習っているKD姉さんに「どんな曲を習ってるの?」と弾いて見せてもらった。が、どの曲もやはり運指の基礎を徹底して繰り返すみたいな音符の羅列であって、弾いて盛り上がりそうなポップな曲なんかはないのであった。こういうのを習ってこそちゃんと左手と右手が別々に動くようになるのだろうが、萌は俺のギターに合わせてメロディを弾いて楽しんでるので、それに比べるとちょっと退屈かもしれん。何事も基礎は退屈なのかもしれんが。うーむ。

ピアノの習い方に、他の方法ってあるのだろうか。ギターなんかは独学でも楽しめるのだが。.....まあそもそも、家にこんなセコいキーボードしかない時点で、ピアノを習わせるのは無理か。エレクトリックピアノがほしい。宝くじ当たってくれ。

2005/11/03

日記「大ハロウィーン日」

「萌の日本語問題アゲイン」「「英語を使ったら負け」ゲーム」ほか。
\=======================
■ 05/10/24(月) 11:26:56 □ ストライキ終了
=======================

 ストライキが終わり今日から学校開始。学校の時間までは各自仕事をしていたのだが、9月からアルファベットの小文字を習い始めた萌が、なんとすでに全部書けることに気がついた。なんというおそるべき子供の記憶力であろうか。

----------------------
 2ヶ月ぶりに(先々月は注文し忘れ、先月は PoCo に配達がなかった)バンクーバー日系肉屋の肉が手に入り肉じゃがにした。うまい。しみじみ。ここの商品はグループ購買の手間があり、また値段も高めであるとなかなか客が増えないようなのだが、「和牛」などを選ばなければ十分に安いと思う。今回は「牛薄切り(特売・上)」で 100 グラム $1.50 程度、淡白だがやわらかくてかなりうまい。日本でこの値段でこの質は買えないのではないか。

 受け取りの手間はたしかに手間だが、他のアジア系スーパーの肉とは、アブラ取り・スジ取り・目の揃え・スライサの性能と、同じスライス肉といっても職人の仕事が違うのだ。日本の肉屋は食感が最大限よくなるよう面を整えてからスライサに入れるのだが、コリアンなどの肉はブロックで凍らせたものをザクっと「裁断」している感じ。あれはタレで漬け置きして食べるものなのだろうと思う。

=======================
■ 05/10/25(火) 09:27:25 □ HNのバースデイでクラッシュクローリー
=======================

 スイミングを終え、KT家でランチとケーキをいただき、萌たちはクラッシュクローリーへ。俺とMも後からすぐに向かう。萌はもう最後までエキサイトメントの絶頂であった。よほど疲れただろうが、よい疲れだったようで帰ってから機嫌を崩すこともなく、良い日でありました。ありがとうありがとう。

=======================
■ 05/10/27(木) 10:03:44 □ 冬の気配です
=======================

 スイミング:前回からレベル3なので、もう萌たちの顔は常に水面下にある。このレベルではもうフロートなしでバシャバシャと2~3m泳げる子がいて驚く。萌もこれが終わる頃には、あそこに到達するのかもしれない。

 しかし外はもはや朝夕は冬である。晴れた朝には車の窓が凍るのも時間の問題。こんな寒い中を泳ぎに向かうのは嫌だなあと毎度毎度感じる。プールの前後をできるだけ暖かくしていくしか対処法はない。

=======================
■ 05/10/29(土) 25:10:31 □ 萌の日本語問題アゲイン
=======================

 一日ハロウィーンと明日のELバースデイの準備に費やした。Mと仕事をしていて、萌は最近俺にも英語で話すことが多く、特に何かを説明するときには絶対に英語になるよと話す。英語のほうが論理のステップごとに少しずつ進んでいけて便利らしい。俺も萌の語彙を考えると、複雑なことは英語のほうが説明しやすい。萌の持つ語彙のうち英語の語彙のほうが、抽象概念などを多く含んでいるのかもしれない.....といろいろ俺の見解を示すと、それはまた英語のほうが上手になるサイクルかもしれず、トモはまた日本語だけを話すようにしなければだめよと言われた。まあたしかにプリスクールじゃKTたちと毎日日本語を喋っていたのだが、今は俺との会話以外はずっと英語 (とフレンチ) だもんなあ。また気合を入れて日本語に力を傾注しないと。

 ハロウィーンのコスチュームは段ボールで作った車。地味だがこうもり型のエンブレムとか、モンスターの顔が描かれたナンバープレートなど、萌の工夫がいろいろと詰まっていてかわいい。

=======================
■ 05/10/30(日) 13:00:34 □ ELのバースデイ
=======================

 ELのバースデイ。子供だけで 15 人ほどもいる盛大な会であった。ELがガールズよりもボーイズとキャーといって走り回るのを好んでいるらしいのが、けっこう新たな発見であった。

----------------------
 帰ってチャールトン-ボルトンの試合を見始めると、中田はときおり素晴らしい鋭さでボールホルダーにアタックしてボールを奪うシーンが目立つものの、攻撃ではろくにボールを保持することができず、ほとんど何もできないまま前半は終わる。まあ別に中田が特に悪いというわけではなく、中位クラブらしい雑な攻撃が続くああいう時間帯は、パスの受け手が本職ではない中田は周辺をうろうろするだけとなってしまうという感じ。たまにボールを持っても相手が詰めてくるのが早く、すぐに奪われてしまう。

 後半はボルトンが押せ押せになり、中田も技を見せ始めた。2~3人に囲まれてもボールを取られないという大物感がやはり蘇っている。大久保みたいな大きな切り返しでDFを2人抜いたシーンなどは、今まであまり見たことがない。失敗したら恥なああいう大技を出せるあたり、自信を取り戻しているのは明らかだ。しかしそれ以外は特に見せ場はなし。とにかく自信が戻ったのがうれしいという程度で、次の試合に期待である。

=======================
■ 05/10/31(月) 13:00:28 □ 大ハロウィーン日
=======================

 ストライキで2週間学校がなかったせいで行事が圧縮されていて、今日は朝からパンプキンパッチ(観光農園)に行き、帰ってすぐに学校でパーティがあり、で夜はハロウィーンがあるというハードスケジュールにされてしまった。これで雨が降ったら悲惨だと心配していたのだが、幸い雨はやんでくれている。

 去年も楽しかったパンプキンパッチなのだが、今年は雨には降られなかったものの去年にもましてドロドロで、馬車の体験試乗はなく、コーンの迷路は泥がひどすぎて事実上閉鎖されていた。そんなわけで時間半分で終わってしまった。まあ去年は雨中1時間でけっこう大変だったので、これくらいでちょうどいいか。

 帰りに Lougheed が事故でひどい渋滞になり 45 分も橋を渡れず、萌はおしっこしたくなるし、同乗していたジャマイカなまりのSHは退屈して騒ぎ、中国なまりのASは好き嫌いが激しくて何も車内で食べるものがないと、どうにもお疲れさんな事態になってしまった。やれやれ。

----------------------
 でMと萌はハロウィーンパーティに参加するために直接学校へ向かい、俺は昼飯を食いに戻ってきた。子供たちが皆ハロウィーンですごい格好をしているのに、萌だけが普通の格好で段ボールの車に入っていて、見ていてチトつらかった。段ボールの車自体は、萌の描いたエンブレムやナンバープレートの創造性が高く優れているのだが、やはり昼の光の中でドぎついハロウィーンコスチュームのキッズに囲まれると、しょぼさを禁じえない。夜の本番には、へッドライト部分に仕込んだ LED が光るからもっといいのだが。

 それにやはりただ一人平服というのがどうも....。なにか合わせて仮装もさせてやるべきだった。どうしてそこのあと一歩をやってやらなかったのだろうと後悔する。昨日この状況を思い、せめてパーティドレス等でドレスアップさせてやるべきだと言ったのだが、「呪われたドライバーのメイクアップをする?」とMが聞いても萌はいらないといったのだそうだ。「大丈夫、本人は楽しんでるわよ、何も問題ないわ」とMはいう。がしかし、うーむ。

 とにかく少しでも今夜のエキサイティング度を上げてやろうと、帰ってからあれこれとランタンやろうそくを用意した。
----------------------
 夜、イトコのSTが萌と一緒にトリック・オア・トリートをやるという段取りに知らぬ間になっており、彼女がエルフの格好をしてやってくる。大好きなSFと夜の町を歩き、KTの家へ行ったり道でLちゃんやキンダーの子たちと出会ったりで、いろいろ心配したが結局のところこの上なくよいハロウィーンとなったのであった。イトコはほんとにありがたい。昼間見るとインパクトに欠けた段ボールカーも、夜になり設計どおり光るとやはり愛らしく、何よりも珍しく手作りなのが明らかなのでどこの家に行ってもおじさんおばさんにほめられて、頑張って作ってよかったのであった。


=======================
■ 05/11/01(火) 10:14:14 □「英語を使ったら負け」ゲーム
=======================

 スイミング:俺とMはハロウィーン疲れでがっくしなのだが、萌は元気一杯。年齢的な登り下りの対比が激しい(^_^;;)。今日もレッスンは2つ新しい技に挑戦し、全員成功。どちらも前にやったことの応用だがレベルは高い。萌たち生徒は水の中で何かをすることに、素晴らしく自信をつけている。

----------------------
 キンダーに行くと、いつも通りA先生は定時にはクラスに来ていずドアがロックされていたのだが、お昼に当番でキンダーキッズの世話をしていたらしい4~5年生の年長キッズが、雨なので気を利かせてドアを開けてくれた。

 しかし入れたはいいが子供らだけで置いていくわけにはいかないので、親が皆軽くイライラっとしつつA先生を待つという状況になる。何人かのお母さんが、「どういうことなんだ、これまで一度も時間通りに来たことがない」と怒っていた。実際先生はこれまで一度も定時にドアを開けたことがなく、昼はおそらく教員室で過ごし、ブザーが鳴ったらよっこらしょと教室に向かうという感じなんだろうなあ。

 いつも通り3~4分遅れで先生は教室に登場したのだが、その「さあて午後の仕事に取り掛かるか」という感じの無愛想な顔を見て、俺がこの人に親近感を感じない理由がよく分かった。この人は子供に相対するときに笑わないのが難なのである。プリスクールの先生たち並みに元気にとは言わないが、これだけの子供たちがきちっと座って自分を待っていたら、フツー微笑みを携えて教室に入ってくるくらいのノリにならんもんだろうか。昨日のフィールドトリップのときもただ義務的にそこにいただけで、率先して子供を楽しませようとか一緒に楽しもうとかいった態度は皆無だったし。つまり子供相手の職業なのに、普通の親並みの愛嬌すらもないから反感を感じるのだ。まあ萌はこの先生を含めて学校が気に入ってるらしいから、俺が文句を言う筋合いではないんだけど。

----------------------
 昨日の疲れもあろうと今日は帰った後ゆっくりと静かに萌と遊んだのだが、萌は久しくやってなかったプラ・トレインなどを出して、素晴らしく機嫌がよく楽しかった。

 先週から始めた日本語鍛え直しは、なかなか難しく苦闘している。俺と萌との会話で「英語を使ったら負け」ゲームをやっているのだが、改めてルールを決めてみると会話の実に多くを英語に頼っていたのが分かる。英語を使わないと会話が大変だし、萌は細かい説明 or 描写口調になるとどうしても英語になってしまう。萌に日本語を教えるのをサボっていたつもりはないのだが、これはどうも英語のほうが理解&解説しやすい概念というものが多々あって、自然とそっち方面は英語で構成されていくという感じなのではないかと思われる。とにかくゲームの時間外も昔のように、何を言うのにも日英両方でリピートするという方法で言葉を教えていこう。

=======================
■ 05/11/02(水) 13:46:43 □ A先生問題
=======================

 午後萌を迎えに行ったMが、「マザーズがA先生の子供扱いが厳しすぎるとかで不満を抱えて結託している」と心配している。「あたしはA先生はいい先生だと思うけどね、萌は彼女を大好きだし」というので、昨日彼女が遅れてきたことでマザーズがイライラっとしたことを話し(Mが話したのはやはり昨日怒っていた人だった)、「実を言えば俺もA先生が好きではない」と白状した。

 お前さんは自分が教師だからいつも教師というものに同情的で何事もポジティブに捉えるけど、子供といて笑わないというのは、キンダーの先生らしい態度ではないだろう。フィールドトリップのときだってただそこにいただけで親たちよりも匿名的だったし、そういう無愛想な人なんでしょ。そういう性格的なところが、無用に厳しいという印象を与えてるんじゃないの? それに加えて、数分とはいえ毎日確実に遅れてくるあたりのマイペースなところが、マザーズを苛立たせているんだろう。まあ君のいうように、萌たち子供らは先生に不満を持っているわけじゃないから、俺は文句は言わんけど。

 とここまで説明すると、普段萌を送迎する機会が少ないゆえに状況が分かっていなかったMも、なるほどねえと納得していた。まあ不満を持たれない教師なんてそういるもんじゃないのよ、とにかくマザーズの不満グループのドロドロに取り込まれないでね、と。了解しました。