2021/07/17

古音楽再発見ブームに我がバンドが

【80年代バンド・アブスト再発見の機運高まる】

(コンテスト優勝曲「パレスチナの憤り」) 

若い世代による80年代シティポップ再発見たけなわの今日この頃なわけですが、私が学生の頃やっていてMazdaカレッジサウンドコンテスト84で聖飢魔IIを破り優勝し、その後レコードデビューも果たしたバンド「アブスト」ことアブノーマルストリッパーを発見した10代の音楽ファンが、ギターの久保にコンタクトしてきたそうです。それが今週久保の「共犯新聞」の一面になっています。 


話の過程でアブストにはなんとこのコンテストライブという海賊盤があったのだということも判明(←笑)。そんなレコードあったんだと驚き、久保なきあとのエピソードや一緒にライブをやったアレルギー宙也とか筋肉少女帯のことを語る私のインタビューも掲載されていて、当時のことをある程度知ってる方には面白いと思います。俺たちが当時世話になったラママの大森さんが、イエローモンキーのマネージャーにして現事務所社長になってたとは知らなかった。 






当時の概略を説明すると、大学4年の夏にMazdaコンテストを優勝し、賞品でもらった車に楽器を積んでツアーをやり、ライブハウスにお客が増えレコード会社からもいい話が来てまさに登り調子だった1985年春。アブストの作詞作曲担当で、バンドのスポークスマンであり、ライブハウスで配布し評判になった手書き版「共犯新聞」のデザインイラスト執筆を担い、他バンドとのブッキングやコミュニケーションを司り(※)、雑誌に連載コラムまで持っていたマルチタレントバンドリーダーの久保が、「他にやりたいことがあるので、あとはよろしく」とやめていったわけですよ。オイ! オオオイ!(汗) 

(※ 今このビラを見てもアブスト&ラママ大森さん企画のこのオールナイトライブはすごいメンツだった。あがた森魚、Zelda、町田町蔵、メトロファルスにデラックス宙也とすごすぎた)

86年、レコードとプレスリリース用撮影セッション。右端が筆者 
で置いていかれた4人アブストは、ドラマーテラが曲をたくさん書き、私サカタがバンド実行委員長的な感じで音や方針を模索して、頑張ってバンドを走らせました。

4人となっても何曲かはいい歌を作り、何度かは胸を張れるようなライブをやり、レコード会社との交渉も実りシングルを発売し頑張ったんだけど、レコードは売れず客は減る。やがて徐々に力をなくしていく感じで、1年と少しで解散となったのでした。

「ほんとあの1年はきつかった」と今週の共犯新聞インタビューで答えているのが、その頃の実感。 あと数年実績を積んでからの4人移行&レコードデビューだったら、演奏も言葉でのコミュニケーションももっとうまくやれたと思うけど、チャンスは時期を選んでなんてやってこないのである。 


共犯新聞社クボ(デビュー前にアブストを脱退した作詞作曲担当者)による、トモサカタのメジャーデビュー時懐古インタビュー。
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クボ:レコード「最後のモダンボーイ」で教えてもらいたいんだけど、①発売元のSWITCHは雑誌『SWITCH』の? あの雑誌の記事になったのかな? ②「レコード会社の偉い方から、カップリングはドアーズのカバーで。」と希望されたってのは、本当?

雑誌Switchとは関係なかったんじゃないかと思う。レーベルとして雑誌Switchと提携してたかもしれんが、他のバンドとの企画ライブとかもなかったし。

ポニーキャニオンのプロデューサーI氏という人が担当だった。他にその人が担当してるのは子供バンドやブレッド&バターという、生粋の業界人。その人のアイデアでドアーズやってくれと言われて断ったの。

昔だからお金はあって、Switchが持ってるロンドン輸入服屋で好きなだけ買えと衣装を買ってもらったり、一流のスタジオで録音したり、けっこうお金は使ってもらったのだ。まあ昔だからレコード会社に一つくらいマニアックなロックの不採算部門があってもよしくらいのノリだったんじゃないかな。

それとレコード発売に合わせカラー刷りの販促パンフレットをライブハウスで配布するとなって、そこの記事としてメンバー全員のロックネームをつけろとI氏に言われた。飯島坂田じゃカッコ悪いと。

なるほどなんだけど、そうはいっても急にニックネームなどつけられず、月見猫マネージャが全員分を決めて提出してました(笑)。俺はマメゾーだったと思う。ほかのは覚えてない。

とまあそういう感じで、イケイケ業界人のI氏とマイナーロックの俺たちは持っているアイデアも違って、売れなかったのも当然という感じではあった。せめてテラの曲で当時演奏充実してた「監獄ロック」をシングルに入れたかったんだけど、それも彼に却下されてしまった。

クボ:ポニーキャニオンは今では日本の音楽業界のど真ん中だよ。当時も虎ノ門だったのかな?

四谷あたりだった気がする。なにしろ売れなかったのであまりいい記憶がない(笑)。クボもあと1年我慢して在籍しておれば、あの消耗するロックビジネスワールドを体験できたのに :-) 俺がもらったタイガースの王子様ファッションぽいのももらえたのに :-)

しかしレコードというモノが残ったのは大きく、
いまだに中古レコード屋でこのシングルは売っている。
販促用の豪華なビラもライブハウスで配られた。

 クボ:アブスト、1,980円で売ってます。

レコードはたしか1500枚プレスしてほぼ売り切ったと、解散を決めて報告しに行ったときにI氏が言ってたな。1年くらい休んでまた再開してもいいんだぞとかも言ってくれた。インスピレーションほとばしる敏腕ロックプロデューサーという人じゃなかったけど、会社の上司としてはいい人だった気がする。

クボ:月見猫がニューヨークのレコード屋の棚の中に、こっそり1枚入れてきたとか(笑)。

月見猫がそんなことしてたの? えらい。いい子だったなあ。

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クボ:私の長男は今広告代理店で、ポニーキャニオンとの仕事も多いらしいんだ。NHKホールで椎名林檎の仕事をしていたら久保寿光(クボ弟。元Pモデルのキーボード)がいたこともあったとか。

トシミツは楽器を真面目に弾いてるところすら見たことないのだがPモデルに入って、結局知り合いで今もただ一人音楽界で成功してるよなあ。すごいね。クソ生意気なあの顔と風貌がなつかしい :-) 俺が書いた「戒厳令」を松任谷由実がメロディ書いたプロテストソングみたいだとか評していて、うまいこというなあコイツと思ったんだよねw

クボ:今も超☆生意気。東京オリンピックの聖火の最終ランナー大阪なおみの曲でもうけたと思う(笑)。





この写真は解散ライブのあとの打ち上げ。久保なきあとずっとマネージャーをやってくれていた月見猫ことヒロミちゃんが、寂しそうな顔で写っている。かわいい。いい子だったのに彼女には、バンドとしてなにも楽しい思いをさせてあげられなかったな。久保がいた頃のマネージャーのキヨボーは、暑く楽しい東海関西ツアーに連れて行ってやれたのにね。 


ドラマーテラが書いた、4人期アブストでいちばん思い出深い曲「監獄ロック」。レコードのB面用に録音したのだが、別のアップテンポ曲を入れたいプロデューサーを説得できず収録できなかった。最後俺のギターソロのバックで歌うコーラスに、ヒロミちゃんの声が入っている。これだけが彼女にしてあげられたマネージャー孝行だったかもしれない。◆

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