2017/01/13

【Xbox 360】LA ノワール日記(終)夢と裏切りの園でフェルプスとなる

(特にネタバレはありません)

1月3日



正月二日からフェルプス刑事業務再開。殺人課を終えた俺の新配属先は、ハリウッド管轄区の麻薬捜査課だった。薬物は団体犯罪なので関係者が多く、誰を追っているのかよくわからぬ大味な仕事である。倉庫でクレーンを使うなどパズル的な工夫は増やされているが、なんとなく気乗りしない。

殺人課であんな経験をしてきた直後だもんな。多少気が抜けても無理ないよ俺フェルプス。相棒ロイもいけ好かないし。しかし回想シーンの過去の自分と今の自分の人生が交点に向かっているという、ストーリー上の高まりは強く感じている。


(チャイニーズ・シアターという名所。レッドカーペットがある。)

ハリウッドは前管轄地東 LA よりはヤシが多く西海岸風であるものの、そんなに華やかでもない。意外と夢のカリフォルニア的光景ではないな。

もしかするとビーチボーイズ的「夢のカリフォルニア」は、1947 年にはまだ存在しないのかもしれない。黒人はニグロと呼ばれ白人への敵意をむき出しにし、ユダヤ人への差別が犯罪を呼び、共産主義思想が違法な時代で、大戦で負傷兵の苦痛を抑えるために使用されたモルヒネが麻薬市場に溢れている。戦争直後の LA にはまだ、ファンファンファンな風は吹いてなかったのかもしれない。



第二の事件、「罠」。ボクシング八百長事件と戦時中の思い出が絡んでいく。戦争回想シーンでフェルプスが今と同様カタブツの部隊長だったことが描かれ、その経験がボクシング事件での行動につながる。ドラマが盛り上がってきている。この町のどこかに、今の事件のそのすぐ先に、俺フェルプスが守りたい戦友たちがいる。胸が締め付けられる。

1月5日



軍需物資盗難の捜査線上に、エリート将校だった俺フェルプスを嫌ってるであろう戦友たちが浮かんでくる。お前に話を聞かなきゃならないんだ、ケルソー。お前が事件に関係しているかどうかはまだ分からない。だが俺に疑われるだけで忌々しいという気持ちはよくわかるよ。俺フェルプス刑事は腹の底でそう思っていた。



戦友たちと交わるこの事件のクライマックスで、あろうことか俺は放火課に左遷されてしまった。盛り上がっていたのに。俺に捜査を続けてほしくない者たちが上のどこかにいる。めっちゃやる気を失った。地味な部署に左遷されて失意の刑事をロールプレイさせられている。



俺フェルプス刑事が左遷されたのはこのドイツ人ジャズシンガーのせいらしい。アメリカのドイツ人シンガーってベルベットのニコやん、戦後すぐのアメリカにいるドイツ女性ってなにか特別な存在なのかな、やっぱ彼女も「ファム・ファタール(運命を変える女)」なのかなー! って敏腕刑事はヤケクソに思った。

1月7日

左遷されてから仕事に気乗りしてないフェルプス刑事です。麻薬課最後の事件で追っていた戦友たちの消息が気にかかる。

移動中ぼーっと聞き流していた「カリフォルニアは夢の土地です! 当社はここにあなたの夢の家を提供します!」という空々しいラジオ CM が、いま追っている不審火事件で誰もが怪しいと思う大物ドナルド・トランプ氏(仮名)自ら出演するやつだと気がついた。シーン固定で挿入してあるのではなく、ランダムにかかっている。つまりこの町で彼の会社を知らぬものはいないという自然な演出なのである。

もしかすると気づかなかっただけで、ゲーム開始時からずっとかかっていたのかもしれない。洋ゲーではこういう非説明的な演出に唸らされる。映画ならフェルプスが「ん?」という顔をしてラジオのボリュームを上げる場面だろう。それをフェルプス役サカタ君が脚本も監督指示もないのにやるわけですよ。このロールプレイ感たるやすごいものがある。



移動中に聞くカーラジオは音楽、ニュース、CM、演芸と多彩な内容で実に凝っている。昔東京で聞いていた FEN を思い出す。素晴らしい女性コーラスの曲がかかり、歌詞を検索してアンドリューズシスターズと判明。うちの奥様が「アンドリューズシスターズみたいに歌いたい」と今度姉妹でレッスンを受けるのだが、これか。「――♪キャバレーでビールくらって盛り上がってたら、ピストル持って奥様が飛び込んできたよ。それで逃げてんのさ。そのピストルをしまってくれよママ、しまってくれよ。」――カクイー!

Wiki によれば、アンドリューズシスターズはヨーロッパの連合軍将兵の慰問に活躍したことでも有名であるとある。ここにも戦後直後という時代性がちゃんとこもっている。手抜きがない。



このゲームのオリジナル音楽のよさを書くことを忘れていた。こうした巨大ゲームは総合プロジェクトなので音響も実に練られていて、犯行現場から憂鬱な思いで車を出すときなどは上記のような陽気なラジオは鳴らず、車が道路に滑りだすと同時にこういう音楽がかかる。


LA Noire - New Beginning

事件の犠牲者を思い、フェルプスと相棒が押し黙ってしまう移動車内の心象が見事に反映されている。このゲームをプレイした人は、あの車内の物悲しさを思い出すだろう。これは最初は口論ばかりしていたベテラン刑事ラスティと俺フェルプスが、犯人への憤りという共有感情からある種の友情を育てていく時間の伴奏曲でもあった。

1月8日

不審火の捜査をこなしていると、麻薬課で捜査を中断させられたあの、かつての戦友が絡んだ事件と今の事件がつながってきた。そうか。さすがに左遷され俺フェルプス刑事がただ腐っていくだけじゃクライマックスに辿りつけないもんな。巨悪を暴くカタルシスがあるんだよきっと。希望を捨ててはいかん俺フェルプス。



ケルソー、戦時中俺はお前に嫌われた。見直してもらうことなど望んでいない。だけどケルソー、このままじゃジャスティスはないよな。お前と俺はもう一度、同じ敵を追って戦うのだ。

このゲームはフィルム・ノワールのシニカルな味をよく汲んでいるとマコ先生が評していたけれど、ニコリともしない男たちが投げつけ合う厳しい言葉の中にうっすらと浮かんでくる友情には、たしかに胸を打たれるものがある。いつかお前の硬い頬が俺の前で緩むところを見たいよ、ケルソー。


1月9日

最終二話。麻薬課時代からのすべての事件の全貌が見えた。敵は明確である。今日すべての事件は終わる。ここのところの展開は競馬ミステリーのディック・フランシスのようだ。俺がボコボコにされて痛くて、しかし決して志は曲げないのである。実際ならきっと曲げちゃうがゲーム内では曲げぬ。


敵の大物は、いつか俺が良景を探し車を流した丘に住んでいるとわかった。中を見たくて門をよじ登ろうとし、入れずすごすご帰ったあの邸宅だろう。敵をあと一歩というところまで追い詰めながら、俺は何やってたんだって話です。だが今度は逃さない。



夕日を背にサンセット・ブルバードを敵地に向かう。敵は人数を集め待ち構えているだろう。南に下り左に折れてサンタモニカ・ブルバードをさらに東へ。歌姫シェリル・クロウもこの道をドライブしてた。オールアイワナドゥ・イズ・ハブサムファン。




そしてストーリー終了。

苦く悲しい物語だった。最終章に回想シーンが2つ入り、刑事フェルプスと戦友たちの物語がすべてリンクした。映画を1本きちんと作ってからゲームとして分割したような、壮大壮絶な物語だった。



フェルプス、ケルソー、そして回想シーンで主役だったシェルドンの3人は、俺ゲーム史上ベスト演技賞である。このモデル俳優陣の激似ぶりよ。俳優に演技させそれをキャプチャするというこのシステムで作られたキャラ造形には、たしかに宿るものがある。


(もう一人の戦友シェルドンと、表情の豊かさで俺を驚かせた最初の事件の店員ちゃん)

彼らだけではなく、登場するすべての人に驚くほど強い印象があるのだ。1シーンしか出てこないこんな脇役ちゃんの泣き顔や声を鮮烈に覚えている。こんなことって他のゲームでは経験がない。本当の人の顔ってやっぱり情報量がすごいんだな。

分割したストーリーのすり合わせに齟齬があって、所々つながってない感もあった。あれはどうなったんだというストーリーの粗は多い。推理ものとしては批判されるようなところも多いと思う。しかしこの物悲しいストーリーラインの上で人物たちが話す言葉や見せる表情の全体が泣けるコードとなって、俺の心の琴線はずっと鳴り続けたわけである。

そこはプレイヤーの個人差が大きいところで、このゲームを壮大な失敗作と評する人も多い。それはわかる。このゲームを楽しめるかどうかは、プレイヤーがフェルプスというキャラにどれだけ没入できるかにかかっているだろう。俺は自分がフェルプスになっていくのを心地よく感じ、彼が話してはいないが心のなかで思ってるはずの感情を日々代理ツイートした。彼のダメなところを自分が情けなく思った。

ゲーム全体で言えばケルソーのほうがヒロイックで感情移入しやすいと思う。しかしゲーム終盤に大活躍するケルソーを見ている間も、俺の心はフェルプスなので彼がまぶしかった。彼の無事をずっと祈っていた。この没入感はやはり、これだけの膨大な物量をゲームとして組み上げてくれたがゆえに味わえたものだと思う。



「LA ノワール」の秀逸な部分と残念だった部分は、conflict error 氏のゲーム評「"映画のようなゲーム"を極めた先にあったもの」に詳しい。

◆「グラフィックや演出という点では全力で満点を付けてもいい出来」
◆「一見凄いが実はあらが目立つ尋問」
◆「L.A.ノワールという映画を完成させる俳優を演じるロールプレイングゲーム」
◆「異常に作り込まれたちょい役キャラクターも、オープンワールドすらも、単なる小道具やセットの一部でしかない」
◆「良かったかは別として『映画のようなゲーム』のひとつの到達点ではある」


たしかにそうで、俺は「LA ノワール」という映画の巨大セットの中にいるフェルプスという役者だった。学校演劇すらやったことのない俺が、脚本にないアドリブ台詞を観客に向けつぶやくツイッターという場所も使って、濃密な映画出演体験をできたのである。

殺人課や放火課の捜査など正直ビジュアルもストーリーもしんどいし人に勧める気もしないのだが、自分がやれたことは本当によかったなと思う。よくできた洋ゲーってそういうゲームが多い。人には勧めないがずっしりと個人的な記憶となって、ゲームが自分の中に残っていく。2016 年にやったゲームで、GC ゼルダ「風のタクト」と並ぶトップ2なのは間違いない。




おまけ

1月9日



仕事を終えた俺フェルプス刑事は、気の合う交通課ビコウスキーを誘ってLA名所踏破ツアーをしている。町の東端から驚異の細部造り込みをゆっくりと味わっていくと、米軍施設があった。――ここ入れるじゃん! かっこいい陸軍カーがあった、借ります。あ! 俺が働いてた米軍府中基地跡そっくり! なつかしい!



あっ。陸軍施設内に日本の神社? なんだこれは。



いや…。これは神社じゃない。沖縄の民家だよ、ビコウスキー。お前には話したことがなかったが、俺やケルソーはあそこにいたんだ…。――ゲーム内の隠し施設に、物語の背景につながるこんな訓練施設があったとは。このゲームを作った人たちの底知れぬ作り込み魂に戦慄する。すごいゲームであった、まったく。



L.A. ノワール日記(2)殺人課編「気の毒なエブリン・サマーズ」
L.A. ノワール日記(1)交通課編

0 件のコメント:

コメントを投稿