2005/11/26

追憶の調布関東村(2)関東村のシクスティーズ

2005/11/26 by サカタ@カナダ

(2)関東村のシクスティーズ(1965-1973)

「関東村」Google 巡りをさらに続けていくと、驚いたことに60~70年代に調布基地関東村で高校時代を過ごした人々が30年以上経った現在も校友会 (Chofu.org) を運営し、米国本土で同窓会を続けていることが判明。多くの会員が熱烈に往時を懐かしがっており、Chofu という文字と校章の入ったピンバッジやパーカまで販売しちゃってるのです。

高校大学の同窓会など音沙汰ないわが身を思うと信じがたいほどの熱意なわけですが、この Chofu.org のアルバムエリアに置かれたチアリーダーとかバンドとか卒業パーティの写真を眺めるにつけ、うーんすごいなーと嘆息します。立川基地が全盛期は完全にアメリカであったという話はよく聞きますが、関東村内部も幻のアメリカだったのですねえ。

もう1つの「Dragon's Roar」はどういう人が作っているのか分からないのですが、昔の日本の写真をコレクトしているサイトのようです。




【調布ハイスクール】

チアリーダーとシクスティーズバンド (C)Chofu.org

これが調布とは。いわれないと絶対に分からない(笑)。

  
 プロム(卒業舞踏会) (C)Chofu.org 

こんなところまでも完全にアメリカ式でしたのね。なんか、たとえ世界の僻地に赴任していても、子供らに非アメリカ的な思いはさせたくないといった、親たちの思いがあったのじゃないかと想像させられます。



卒業アルバム (C)Chofu.org
卒業アルバムは日米同じようなものでした。Chofu.org では5年分のアルバムをスキャンして掲載しています。そういうところが本当に熱い校友会です。

◇   ◇   ◇   ◇  

【関東村の暮らし】 



関東村リビングルーム  (C)Dragon's Roar
  質素で快適そうな往時の関東村住居風景。廃墟化しても間取りは同じでしたが、返還後こうした家具は一切残っていませんでした。



関東村売店  (C)Dragon's Roar

ここであのキャンベルの缶スープなどを購入していたのでしょうか。当時の住人によれば当時は1ドル 360 円だったので、子供の小遣い程度でも基地の外では豪勢な買い物ができてうれしかったそうです。


 関東村シアター (C)Dragon's Roar

立川基地黄金時代にスティービーワンダーが慰問でやってきたという伝説がありますが()、関東村のシアターは映画だけだったのでしょうか。 (11 Feb. 1968 Entertainers, Stevie Wonder and Martha and the Vandellas, part of Tami-Motown Festival, played at a sold-out concert today at the Tachikawa West gym.)




関東村プール  (C)Dragon's Roar
このプールは関東村が消えるその最後まで、このまま存在しました。余生はカエルの王国になっていました。




←Chofu.org には1965年頃の関東村全図が載っていますが(別窓で地図を全体表示)、実は私が管理していたのはこの地図の左上住宅部、左下の幼稚園・プール・小学校までに過ぎず、右下(南東部)にあったという中学、高校、教会、シアター、マーケット、コミュニティセンターその他の大型施設はすべて、日本に返還後いつの時点でかサラ地にされ残っていませんでした(79年の航空写真ではすでにサラ地になっていた)。

―――そうかこんなに大きな「町」だったのか。警備員当時は知らなかった事実がどんどん分かるインターネット時代。この町で上の写真のようなシーンをはじめ、さまざまに素晴らしい思い出があったんだろうなあ。実際この校友会の掲示板で、当時好きだった女の子の消息を尋ねる人とかたくさんいるし。



(かつての住民が旧施設名を付記した関東村の、上の地図とは反対の北から見た航空写真。滑走路は東京の離島へセスナが飛ぶ調布飛行場)



私が警備をしていた頃も、「昔ここに住んでいたのですが、中を見せてくれませんか」といって旧住民がときおり訪れました。たいてい70年代に小学生ほどだった年頃の方々でしたが、特例として入場を認め、地図左下に写っている幼稚園、小学校、上の写真のカエルプールといった、関東村最後の名残施設に案内しました。


小学校に隣接した関東村プール。大きなガマガエルたちの王国となっていた。(pic by 弟)

「グレード6(小6)のときはここのクラスで、このプールで泳いだんだよ! ここで友達とフェンスを破って脱走してさ!」

などと彼らは、押し寄せるノスタルジアにものすごく興奮していたのです。

後から廃墟遺跡として見れば、住宅棟しかなかった関東村よりも軍事施設だった近くの府中基地跡の方がずっとエキサイティングだったのですが、人々の青春と思い出は関東村にあったのだということを、この写真たちは語っています。こうして失われた旧職場の姿を発見して興奮している自分も、寄せる思いの熱さは同じなのです。 

2 件のコメント:

  1. はじめまして、私は78年生まれの府中っ子です
    関東村で検索したところサカタ様のページを見つけました、小学生のころよく野球グランドのフェンスを越えてプール付近で遊んでおりました。
    当時サカタ様と遭遇し注意された事はありませんでしたが同じ時代に同じ場所で時間を共有していたとは感慨深いものがありますね♪
    懐かしい思い出を記録されていた事を感謝致します。

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    1. ◇府中っ子さん
      コメントありがとうございます。関東村の警備事務所は朝日通り沿いにあり、僕ら警備員は夜勤明けは朝までそこで寝ていたのですが、ある朝事務所の周りで大勢の子供の声がぎゃーぎゃーと聞こえ、ん? ん? なんだと目を覚ますと、窓の外の構内を大勢のユニフォーム姿の子供たちが全力疾走で駆け抜けて行くのが見えました。何十名もの野球小僧たち!

      起きていることの意味が一瞬わからなかったのですが、つまり彼らは何を思ったか東の野球場から大挙フェンスを乗り越え関東村に侵入し、構内を500m突っ切って西の朝日通り側フェンスへと決死の脱出を試みていたわけです。なぜだ。なぜだお前ら(笑)。

      入ってしまった以上今更これを止めてもどうにもならんのですが、一応パジャマ姿で警備事務所を飛び出し「くぉうらあああ!」と子供らをどやしつけると、「すいませーん!」という声も爽やかに子供らはひょいひょい身軽にフェンスを乗り越え逃げて行きました。それがアナタですね :-)。

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