2005/11/25

追憶の調布関東村(1)関東村警備の日々

(1)関東村警備の日々(1990-1994)
(2021/04/22)全5記事に写真追加と加筆

わたくしサカタは 1994 年にカナダに来るまで、旧米軍家族居住区だった「調布基地関東村跡(東京都府中市)」という広大な住宅廃墟群の住み込み警備員を3年余やっていたのですが、こないだ久しぶりにその頃の夢を見て目を覚ましました。

タクラマ館「関東村跡地 (1993)」
懐かしさに朝イチで「関東村」と検索してみると、えらいページを発見。私が警備をやめる前年に不法侵入を発見し捕まえ退出いただいた、まさにそのカメラマン氏のページがいきなりトップで出てきたのです。←こちらがそのサイト、「タクラマ館」該当記事はその後消滅)。文中「犬を連れて巡回していた警備員に見とがめられ」というのがこの私。犬とは忠実なる警備犬ビコ号のことであります。いやはや、長い時を隔ててなんという偶然なのか。

彼のページには、捕まった時点までに彼が撮影した美麗な写真の数々がありました。懐かしすぎる10数年前の我が職場、今はもうないこの村。写真の腕前も素晴らしい。あのとき捕まえず、もっといろんな施設を撮っておいてもらえばよかった。

さっそくタクラマ館主に連絡してこのすごい偶然を伝え、いくつかの写真の利用許可をいただきました。館主も、10年&太平洋を隔てたこの再会にびっくりだそうです。ありがとうございます、タクラマ館館主様。






センター道路 (旧称 Fuchu Avenue)


この南北1kmのセンター道路が貫くゴーストタウンを、隊員と警備犬ビコ号は日夜巡回し、侵入をもくろむタクラマ館主ら廃墟愛好者たち、廃墟の危険を知らぬ近所の子供ら、あるいは勝手に犬を放し「ドッグラン」として使うジジババ(別記事「恐怖のボクサー犬」参照)らと戦っていたのです。まあ夜は暗黒の恐ろしいところなので人が来ることは一度もありませんでしたが。

東の荒れ地と調布飛行場(pic by 弟)

月の夜の巡回時などは東に広がる荒れ地と巨大な柳と月のコントラストがあまりにも物凄く、ビコ号と共にいつまでも呆然と空を眺めたりしていました。ケイトブッシュの「Wuthering Heights(嵐が丘)」が、頭の中でガンガンと鳴っていました。



屋上ガーデン

ツタに侵食されたこうした建物が、当時でも100棟近く残されていました。この建物は私が初めてこの場所に入ったときに、後述する「キノコの隊長」が案内してくれた棟かもしれません。『屋上ガーデン』と呼ばれた緑に侵食されたこのテラスで、私らは2人弁当を食べたのです。「信じられないよ。本当に俺がこんなすごいところで働くなんて」と、私は声を震わせて。




ボイラー工場 (Boiler Plant)

これは関東村に当時残された中で最大の施設、ボイラー工場。中は巨大なボイラーと配管だらけです。左手にこんもりと見えるブッシュ下に隠された貯水槽とこのボイラーが、関東村全域にお湯を給湯していたと思われます。

この写真は調布の冬の空の色までも見事に写し撮っていて、この日この場所にいた私はこの1枚に、激しく胸を動かされます。


消防署から

もう一つの大型施設消防署跡の2階から南東を望んだ図。武蔵野の冬の森。家々の間はすべてこうしたブッシュと雑木と落ち葉に埋め尽くされ、キジやウサギが生息していました。消防署跡は残念ながら、ハシゴ以外何も残らぬがらんどうのビルディングでした。


住宅内部と警備事務所

建物内部はこの通り、惨憺たるありさま。同様に米軍基地跡である立川基地(後述)はまだ使える古い建物が残っていたため、その屋内に警備事務所が設置されていたのですが、関東村は全建造物がこのように窓もなく風雨に耐えられない状態だったので、プレファブ事務所設置となりました。電気と電話だけが通じ、水道は敷地内にないため、隊員が各自家からタンクで水を持ち込みました。冬はとてつもなく寒く、夏は恐ろしく暑いその事務所に、警備犬ビコと警備隊員2名は交替で寝泊まりしていたのです。冬はよく風邪をひいたなあ。


朝日町通り側フェンス

このフェンスを乗り越え、あるいはペンチで穴を開けて廃墟マニアたちが忍び込み、警備隊員は彼らを捕らえてはフェンスを修復していました。この写真も、この中で3年間暮らした私にはたまらないアングルで捉えられています。道路を挟んで右側にパン屋があり、そこの鳥そぼろサンドイッチが私の常食でした。

現在はこの関東村跡地に、東京外国語大学と警察大学が建てられているのだそうです(味の素スタジアムは、当時誰も入れない草ぼうぼうの荒れ地だった飛び地に建立)。建物の解体は、この93年から本格化していました。 



美しい外壁が残っていた幼稚園(pic by 弟)
幼稚園の中庭

こうした基地跡警備の仕事は、多摩では知られた野外活動型ブルースシンガーだったキノコの隊長という人物が、天の配材というものか80年代に草深い立川基地跡警備の仕事についたことから、当方にも縁が生まれました。旧基地関連施設で警備仕事の空きができるごとに、彼が貧窮する多摩のバンド野郎たちを警備会社に紹介してくれたのです(※我々下っ端警備員は、警備会社での研修と教育実習の後に現場配備された)。

1990 年に調布関東村に警備事務所が新設されることが決まった時点で声がかかり、私は宝くじに当たったような幸運な思いでこの仕事を得たのでした。東京にいながら森の中で働けるなんて。なんてことだ。すごいぜ。

当時残っていた建造物は幼稚園、小学校、プール、消防署、そして巨大なボイラー工場。残存する住居棟は20~30棟ほどだったかと思います。


構内は1970年代から手つかずの自然が残り、
キノコがたくさん出る森だった
住み込み警備は24時間勤務で翌日パートナーと交替というローテでしたが、巡回パトロールとフェンスの修繕とレポート書きさえしっかりやれば自由になる時間も大量にあり(施設内に常駐すること自体が不測の事態に備えた仕事となる)、私は事務所にギターやら本やらキャンプ調理器具やらを持ち込んで、仕事と野営が渾然一体となった生活を追求していました。


気立ての良い警備犬ビコ号

当時私が打ち込んでいたのは英語学習とネットでのコミュニケーション(当時は当然インターネットはなく Nifty-Serve)で、さまざまな英語教材を警備事務所に持ち込み、犬以外誰もいないのをいいことに大声で発音練習を重ね、独学でけっこう英語が話せるようになりました。初めて現配偶者に会ったときに話ができたのも、現在カナダに住み翻訳をやっていられるのも、この基地に流れていた悠久のときの流れのおかげなのです。


資料によると、関東村は65年に作られ、73年に日本に返還されたとのこと。つまりこれらの建物はわずか10年も使われず、その後20年間は放置されていたことになります。が戦後の日本は米軍住宅群を作って住宅技術開発につなげたのだというし、サカタ隊員たち貧乏なバンド青年も廃墟警備仕事のおかげで食いつなぎ未来につなげられたわけで、まったくの無駄ではなかったのですね。



(2016年:掲載サイト移行と写真の追加)
(2021/04/22)90年代に弟が撮った、お前こんないい写真あるならもっと前にくれよという旧米軍基地跡の写真が送られてきて全ページに追加加筆。




19 件のコメント:

  1. サカタさんの話に出てくる調布の旧米軍施設ってこういうところだったのですか!
    ポストバブル時代の日本のパラレルワールドという感じですね。私らのようにチマチマした街に住んでいる者には想像付かない凄いスケール。野蛮で素敵。非常に面白かったです。

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  2. 先日町の中で「旧関東村跡地」という標識を見つけて、何だろうと思ってネットで検索して、このページを見つけました。
    ときどき遊びに行っている「武蔵野の森公園」が昔は関東村だったんですね。
    今でも1ブロックだけ、開発されずに廃屋が残っている所がありました。
    http://blog.so-net.ne.jp/aoken/2006-09-17

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  3. サカタさんはじめまして。
    私が日本で最後に携わった仕事が設備関係の営業でして、旧関東村敷地内の榊原記念病院建築工事に関わった経緯もあり、とても懐かしくなりました。

    神奈川県生まれでして、幼少時代から米軍基地との関わりが深かった為、調べごとをしていて偶然にもサカタさんの関東村アルバムを目にしたんですね。

    住いが近いのも偶然ですね、私もカナダに移民をし、バーナビーにて妻と暮らしております。 

    楽しく拝見させていただきました。

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  4. ◆お読みいただきありがとうございました。関東村ゆかりの方が、隣町バーナビーにお住まいとは。
    ◆記念病院とは、今検索してみたら野球場だった並木のあたりにできたようですね。関東村廃墟群からあの並木道をはさんで調布側にも私の管轄する荒地がありまして、警備犬とともに一度入ってしまうと出口を見つけるのも困難なほどの、背の高いすごいヤブになっておりました。そのヤブの中で付近住民により日本最大のキノコが発見され、管轄地なのに新聞に載るまでこのワタシが知らなかったという恥なこともありました。
    ◆そこに今サッカー場があるわけですね。関東村跡地にできた学校もスタジアムも、まだ見たことはありません。いつか行ってみたいものであります。

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  5. はじめまして。
    ふとした事から「関東村」に興味を持ちました。

    まだまだ不勉強なので貴殿のサイトで勉強させていただきたいと思っております。

    もし、よろしかったら私のブログにコメントを寄せて頂けると幸いです。(「関東村」について載せております)

    http://plaza.rakuten.co.jp/jamborg/diary/200801280000/#comment

    何卒、よろしくお願いいたします。

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  6. 五歳から九歳まで、関東村のすぐ傍に住んでいました。ほんとうすぐそこにあって、金網の柵に囲まれた向こうは自分の近所とは全然違う建物が並んでいて、整然とした芝生や道路が見えた。両親に、中に入ったら、アメリカ人に撃たれるから絶対入ってはいけないって言われてました。そう言われたら、入りたくなりますよ!近所の友達と忍び込んでは、「探検」してました。春に中にあった小さな貯水池の土手でつくしを採ったのを覚えています。次の小説に、関東村を入れたかったのですが、資料が意外と少なくて困っていました。貴重なサイトをありがとうございます!

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  7. 【くげ様】
    ◆このページに写っている「ボイラー工場」の横手にも貯水タンクらしき大きな土盛りがあって、その土手にもつくしが盛大に出ていました。かわいいのでワタシも取って食べましたよ。味は覚えてないので、さしておいしくなかったのでしょうけど。
    ◆関東村に住民がいた頃に侵入していたとは、向こう見ずなガキパワーは偉大だ。私が警備員時代もそうした調布府中ローカルガキたちがわらわらと入ってきて、当方を悩ませてくれました。今はもう消えてしまったあの場所の思い出を詰めたストーリーが読めたなら、ファンは実にうれしいことでしょう。小説に期待しています。
    ◆昔ここで暮らしていたのよという女性を案内して、一緒に中を歩いたことがあります。「あ、たぶんあの建物よ、私が住んでいたのは!」と大喜びする彼女をそのアパートのデッキに上がらせ、下から見上げた写真を撮ってあげました。彼女は持ち帰った写真を、関東村で共に暮らした家族に見せてあげただろうか。

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  8. はじめまして
    府中市に住む斉藤と申します。64歳です。
    このページを見て感動しました。
    私は高校生の1964から3年間、関東村と府中基地でstars&stripes新聞の配達をしていました。きっかけは44年ぶりに関東村に住んでいた当時の友達からメールが届いたからです。そこで思い出のホームページを作ろうと思い、当時の写真を探していたところ、貴方のサイトを見つけました。
    できれば、写真やリンクの承諾をお願いしたいのですが可能でしょうか?
    ご検討よろしくお願い致します。

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  9. >Saito様

    ◆記事に掲載した写真はすべて廃墟写真を趣味となさる方々から転載許可をいただいたもので、いま見てみたところどのサイトも元気に存続されてますので、それぞれのリンク先で許可をいただいてください。事情を述べたら皆さん快諾してくれましたよ。

    ◆関東村と府中基地の現役時のことを知る方の記事はぼくも読んだことがありませんので、ホームページが完成したらぜひお知らせください :-)。

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  10. さかたさん
    さっそくの返信ありがとうございます。
    では、それぞれのリンク先に問い合わせてみます。
    確かに、施設の現役時のページはないようですね?私が働いていた頃は写真を撮ることは無かったのでほとんど残っていません。
    明日、横田基地のPS&S事務所に46年ぶりに行きますが当時のスタッフはいないようです?
    では、HPが完成しましたらお知らせします。
    ありがとうございました。

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  11. さかたさん
    先日書き込みした斉藤です。
    ホームページができましたのでお知らせします。
    44年ぶりのメールをきっかけに作りました。
    記憶は残さないと消えてしまいそうですね。
    読んで頂けたら幸いです。
    http://www.pccycle.jp/pss/index.html

    では、よろしくお願い致します。

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    1. これはすごい\(^-^)/、読みます読みます「Stars and Stripes Newsboy Story」!

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  12. サカタです。今日全部のページを読ませていただきました。面白かった。特にぼくが駐在した関東村の地図が載ったページがやはり楽しくてガシガシと読み、あの広い関東村を高校生たちが自転車で新聞配達していたのかあとニヤニヤしてしまいました。僕が駐在していた1990年代にはもう、関東村の東半分は更地になっており、地図に記載された「新聞保管所」というあたりには建物はありませんでした。そこから西に2ブロック行ったところの消防署が、残った最大の建物でした。ああ懐かしい(笑)。

    府中基地も僕の担当でした。記事の「メイドさんがいた高級将校の邸宅」も90年時点では残っていました。中にも入れましたが、サンルームと暖炉があるまさに邸宅でしたね。92年頃にあのあたり一帯が取り壊れてしまいました。パラボラと「ホテルの様な造り」とある宿舎がいまだに取り壊れされていないのは、おそらく費用の問題でしょう。あそこは住宅地がフェンス一枚隔てて隣接しているので、取り壊すとなるとなかなか大変だと思います。

    通信施設ではなかったかと述べられた背の高い建物は、僕ら警備員はバードハウスと呼んでいました。がらんどうの倉庫のような建物で、はるかに高い天井に無数の鳥が巣を作りガアガアと支配していました。4階相当まで吹き抜けだったので、なにか航空機関連の試験塔だったのではないかと想像していました。当時は中に通信機材等があったのでしょうか。

    いやはやなつかしい。60年代現役時を知るミノルさんとはなつかしさの位、番付が30年分違いますけども、いいものを見せていただきました。ありがとうございました :-)。

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  13. はじめまして、府中市在住の30代の者です
    小学生の頃よく朝日町通り沿いの野球グランドから侵入して遊んでおりました。
    当時サカタ様に遭遇することはありませんでしたがドキドキしながら廃墟を探険しておりました、現在では当時の面影はほとんどありませんが近くにお越しの際は立ち寄ってみてください。

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    1. 数年前にどこかで見た写真では、北の住居棟数棟だけが現存していたのですが、そこは永久保存なのかな。なつかしいです。立ち寄ることがもしできたら泣きそう(笑)。

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  14. 残念ながら北側の最後の砦も更地になり何も残っておりません(涙)
    ですが府中基地の廃墟はいまだ健在です、何年か前に独立行政法人の施設が計画されましたが頓挫して現在も異様な雰囲気をだしています。
    Newsboy斉藤さんのHPを拝見して廃墟以前 運用当時のアメリカを体験したかったなと感じました

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    1. いいですよねNewsboy斉藤さんのページ。この記事を書いた頃当時の住民の思い出ページを多数読みましたが、みな関東村と調布府中をホームタウンとして懐かしんでおられましたね。

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  15. 初めまして。
    風だよりと申します。突然、恐縮です。

    このたび、自分のブログに「関東村」関連の記事を書き、まことに勝手ながら、貴サイトへのリンクを
    張らせていただきました。

    http://ameblo.jp/mbk-hilander/entry-11906656726.html

    何かございましたら、ブログのコメント欄により、ご連絡いただければ、
    幸いです。

    以上、要用のみ。

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  16. 【風だよりさん】のページ(ナイス)と「Anyone live in/near Kanto Mura 1968-1973 ?」をざっと見てきました。あそこに投稿している人たちやその子供たちが、90年代の関東村によく訪ねてきましたよ。◆もしかするとこちらの記事もご興味を感じていただけるかもしれません。立川基地の話です。「ランドリーゲートの想い出(立川基地の青春)」

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