2012/02/23

日記「中身はいまでもイノセント」

「世界最高速のカーネーション」「糸子はサンプル展示品じゃない」「Wii がきたぞ」

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■12/02/13(日) □ 世界最高速のカーネーション
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ツイッターの「#カーネーション」タグ(番組関連発言を集めたもの)の記事を毎日読んでいる。実に面白い。みながシンプルな言葉でくっきりと鮮やかに、見たばかりの出来事について飽かず語っている。このドラマについて語られる、大衆の言葉までもがこんなに生き生きとして楽しいところが素晴らしい。緻密に彫り込まれた映像なので、初見で皆が気づかなかった仕掛けが発見報告され、それを確かめるために日本中の人がまた見るということが繰り返されている。

「僕ら凡人は自分に起きたことしか歌に書けない」と以前音楽について書いたが、凡庸なドラマも表現として同じ類のものだ。北米日本語TVで放送される(つまり日本でヒットした)民放ドラマは、凡人の想像力と理解力の範疇で「リアル」なものを作っている。それで面白いものももちろんあるけど、そういうものに対しては人々がこれほどの言葉を語れないと思う。よかった、面白かったのバリエーションしか言葉は出てこないだろう。そうした言葉が並んでも、わざわざツイートを検索して読む気はしない。

それに対し「カーネーション」は、小篠一家という非現実的なまでに非凡な家族を叩き台に、さらにそれを超えていくぜという脚本家とスタッフと役者のものすごいアイデアとエネルギーが注ぎ込まれている(バンドの話みたいだな、いい歌が天才的アレンジと演奏でモンスター級名曲になるからロックは奇跡だ的な)。そんな凡人の想像を超えた小原家の一角に、視聴者は毎日居ることができるのだ。大衆に与えられてしかるべき、『大衆的だけど凡庸ではないもの』を「カーネーション」制作陣が見つけ、精緻極まりない創り込みで届けてくれるおかげで、日本国民はスカーレット小原な人生を毎日共有できるのである。見る側の気持ちは当然自らの日常の振幅を超えて震え共振し、言葉を発せずにいられない。かくしてツイッターのカーネーションタグが大盛況になるわけである。

しかも皆子供の頃から知る大衆的極まりない糸子の話なので、誰もが身内のごとく気兼ねなく言葉を投げかけられる。糸子それはダメやで、おばあちゃんに怒られるで、とか言える。それが映画とは違い長い時間をかけて一代記を追う、こうした長いドラマの力なんだなと実感する半年間だった。もうじき終わってしまうんだよなあ。

「演じていて自己ベストどころではなく世界最高速を出しているとしばしば感じる」と尾野真千子さんが言ったそうである。その通りだろう。日本のTV史に残る名作である。

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■12/02/14(月) □ 中身はいまでもイノセント
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妻Mにバレンタインの花を買うとえらい喜んでくれた。現在反抗期まっただ中の萌11歳は俺の花買いには付き合ってくれたが、それ以外俺とは口を聞かず。

ここんとこ萌が俺と全然話してくれんとMに言うと、関係改善をすればいいじゃないのと軽く言う。たとえばバドミントンの件は「お父さんがクリティカル(批判的)だからなにも話したくないのだ」と萌がMに言ったとのこと。なにごとにつけそういうことじゃないのとアドバイスしてくれた。

バドミントンの件というのは、萌を子供扱いし技術面でアドバイスせずただ遊ばせているバドミントンコーチに俺が腹を立て苦情を言いたいと主張し、萌があれで楽しいんだからやめてくれと言ってる件である。うーん、そうか。かように俺は愚かさに対してセンシティブすぎ寛容さに欠けるので、俺のクリティシズム(批判精神)が萌の生活全体へのクリティシズム(批判)になってるということか。薄々気づいてはいたが、わかってきた。

「子供は考えが足りないから、自分で物事を正しく判断できるようになるまでは言うことを聞け」というのが親の言い分なのだが、正しくできなくてもいい、放っておいてくれというのがつまり、反抗期というものなんだろう。つまり風邪をひくから厚着しろと叱るのをやめ、風邪をひく自由を認めてやらないと生活が回らないということである。スポーツだって俺のアドバイスに従えばうまくなるわけだが、うまくならなくてもいいから楽しくやるという自由を萌は求めているわけである。こんなすれ違いに解決法はもちろんないが、反抗の構造だけは見えてきた。

ちょうど今日「カーネーション」で、「若い子のやることは、自分にわからんからちうて間違ってるとは限らん。外国語みたいなもんや」と糸子が言っていたが、これを俺も心得ておかねばならない。俺が萌に言ってることは正しい。しかし萌の気持ちが間違ってるとも言い切れないのである。お互い外国語みたいなもんや。

よし、今日萌に謝ろう。なんでもかんでも批判して悪かったと。萌がやってることはオロカでそこら中間違ってると実際思うが、これからは叱責という感情を交えず、ただ萌がすべきことを命じよう。でやらなければただやれといおう。できるだけものごとをシンプルにしよう。そんな単純に行くわけないのだが、方針を立てればお互いにもう少しは楽になるだろう。



といったん仮の結論を出して萌の部屋を掃除していたら、トイレットペーパーに書いた「なぜSRの誕生パーティに行きたいか」という3枚にもおよぶ箇条書きリストが見つかった。風邪をひいていたし前後に別のパーティが入っていたのでやめとけと俺が言ってもめたパーティである。

あちゃーこれは俺に対する怒りや批判が書いてあるなと思って読むと、「よく寝た」「宿題はやった」「暖かくする」「鼻水が出てるだけでシックじゃない」と、まったく内容に感情的な色がついてない。俺を説得するためにトイレに篭りこんなに真剣に考え、それで結局パーティ行きを勝ち取ったのか。

これを読んでジーンとしてしまった。やっぱ萌は、いまでも中身はこんなにイノセントなんだな。《中身はまだ子供で全然考え足らずのくせに人の言うことを聞かない》と俺はげんなりしてるのだが、《人の言うことは聞かないが中身はいまでもイノセント》と逆に捉えていくべきなんだろう。

で、萌をピックアップ時に今日俺が考えたことを伝え、「あのメモには感動したよ。私は間違ったことは言ってないと今でも思うが、言われること自体が嫌なのだとよくわかった。これからも言うとは思うが、言い方には気をつける」と謝ると、萌の機嫌は明らかによくなった。これで当座気分がよくなっても生活は同じなわけで、関係性が劇的によくなることはないだろうが、なるべくケンカはせずにやっていこう。

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■12/02/17(金) □ 糸子はサンプル展示品じゃない
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MKの奥さん無事出産。めでたし。萌を連れてベイビーを見に病院へ行く。ベイビーはお母さんよりも朝青龍に似ている。マイクロサイズの朝青龍という感じ(笑)。MKは遠慮する萌に無理にベイビーを抱っこさせるなど、すでに親バカ Proud Dad そのものであった。あいつはうちに住んでた9年間萌にさえ親バカ的に奉仕してたので、自分の子だとどうやって甘やかそうかというロードマップがもう、ずーんと地平線まで伸びている模様。

萌は病院への道中も例によってむっつりと口を聞かなかったのだが(結局俺の批判癖など関係なく、機嫌が悪いのがプリティーン女子のデフォルトなのである)、ベイビーを見て気分が晴れ晴れとしゴキゲンになった。萌もこの病院で生まれたんだよ、どの部屋かは覚えてないけど、あのフロアや喫煙所はよーく覚えてるよと萌に話す。「そうか、お父さんタバコ吸ってたもんね! 隠してたけど知ってたよ!」と久々に会話が弾むのであった。

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【カーネーション】聡子が「(お母ちゃんが見てくれなくて)さびしいから」とテニスをやめ、洋裁への道に大きく舵を切る。これまた楽しくなりそうだが、しかし糸子のあの精気のなさ、無関心さの露骨な強調はなんなのか。「老いが重要なテーマ」だと制作はいうけれど、糸子はそんな老いのサンプル展示品じゃないんだからさ。昼間起きてられないほど精気をなくし、裁縫以外の外界に一切の興味をなくすなんて、ありえんよ。

おかあちゃんだって神戸のおばあちゃんだって年をとってもスローダウンしていくだけで何も変わっていないのに。そしてハルばあちゃんのあの美しい老いぼれっぷりを見せてくれたドラマなのに。糸子だけが「老い」テーマ=感性鈍麻のマネキン展示みたいに使われ、不愉快なのである。このドラマを熱愛してきて初めて、こんな糸子は見ていたくないと思ったな。尾野真千子さんは当然あと2週、渾身の芝居で素晴らしい後味を残してくれるだろうが、彼女の残り少ない時間を聡子を覚醒させるためのこんなアリバイ芝居に費やされたくはなかった。

なんでこれに腹が立つのかというと、糸子=尾野真千子が培ってきた魅力よりも、テーマである「老い」を表現することのほうが大事なのだろうかと疑問を感じるのである。主役交代に対しても同じことを思う。糸子の全生涯を描くことに、尾野真千子を交代させるだけの意義があるんだろうか。それは最後まで見てみないとわからないのだけれど。

何事もパーフェクトというものは手に入らないものだ。音楽においてもそうであるし、朝ドラなんて半年にも渡る進行形の制作物なんだから、停滞や違和感が所々に現れることは致し方ない。隅々まで完璧を求めるなら単発の映画しかないわけだが、しかし長いドラマには映画には得られない一体感があるのだと、つくづく思い知った我らカーネーション・ラバーなのである。

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■12/02/19(日) □ Wii がきたぞ
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TV と PC を見過ぎだとついに制限がかかり、することがなくなった萌が退屈し廊下を往復している。これを見かねたかねたMが、Wii の中古でも買えと命じてきた。先月加入したネット映画サービスを TV で見れるし、あんたたちはゲームでも一緒にやればいいじゃないの。それもそうだな。それしかないなとさっそく中古を探す。

遊べるゲームのクオリティとしては画質の桁が違う PS3 と Xbox に惹かれていたのだが、俺が TV 前に陣取って長時間 RPG をやるなんてことは今後起こりえないので、萌と Wii スポーツがやれればそれでよし。

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で早くも Wii が来たぞ。ついてたゲームは「Wii スポーツ」と萌がほしがっていた「スマッシュブラザーズ」。これはやってみたら単純な格闘ものであった。30 年前のファミコンレベルのゲームだ。なんでこんなものが大ヒットしたのか。Wii なのにコントローラを振らないし。まあフリーだからいいが。

映画サービスも問題なくインストールでき快適に見れる。インターネットもちゃんとつながり、Youtube が見れる。前に借りたときはどうせ借り物といじりもしなかったので知らなかったのだが、Wii はすごいマシンである。つまりあれをベースメントのTVに繋げておけば、萌は友だちを呼んでゲーム、映画、Youtube と遊びまくれるのだ。最高ではないか。

実際久々に萌と長時間遊んだわ。うっすら汗をかくところまでテニスを何セットもプレイした。やっぱあのコントローラをスイングすること自体が楽しいという根源的な快感が Wii にはある。萌もバドミントン効果か、昔よりうまくなっている。これで正解だ。俺用にサッカーか RPG をもう1本、萌と友達用にパーティものをもう1本という感じで手頃なソフトを探そう。



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