昨夜自分のブログを整備していて冬にやってたゲーム【LAノワール日記】を読み、あれはゲーム内の役になりきり強烈な感情を経験するすごい体験だったなあと思い出した。面白いゲームをやると日記も面白い。今たまにやってる「セインツロウ3」はストーリーがないので、日記に書くこともない。
第1章-牧場暮らし
ゲームの舞台は西部劇の町。物語最初の駅に着くと、なんだか懐かしい。カナダにもところどころにこういうアーリーアメリカンな町が残っているし、駅も遺跡として残っている。時代的に赤毛のアンの時代なんじゃないかと思う。
このゲームで俺が演じるのはホコリ臭そうなカウボーイのジョン・マーストン。なにゆえかかつての仲間を追っているらしい。こんなむっさい俺なのにきれいな女牧場主のボニーがなぜか親切に雇ってくれ、夜の牧場を馬に乗ってあちこち案内してくれたりして、初日から俺はうれしかった。きれいですねマダム。…いや、星とか、月が。
LA ノワールで会った最初の女性 |
ライバルのベセスダはそこがひどくて、Fallout NV で俺に銃の使い方を教えてくれたガイド女性はまるでマネキンだったし、パーソナルなことは何も話さなかった。ベセスダのゲームはオブリビオンもスカイリムも人物がかわいくないのである。
8月5日
牧場の小仕事を手伝う日々。町へのお使いを終えて牧場に戻り、牧場主ボニーの顔を見に行く。彼女が優しいのでつい俺は、「これまで人を殺し、金を奪い、なんでもやってきた。俺はそんなやつなんだ…」と話してしまう。俺の顔を覗き込むボニーが夜の明かりにかわいく見えて仕方がない。いかんいかん、なにか仕事はないのかいと話を変える。
ボニーに頼まれた牛追いの仕事(楽しい!)後、特に用事もなさそうなので地形を見渡し、川の方をゆっくりと30分ほどホースライドした。歩いているだけで楽しい。このゲームは馬に乗ることが楽しいんだなと分かってきた。車じゃとても通れないアップダウンを、馬はワシワシと登り下ってくれる。
昔ウィスラーでこういうクォーターホース(カウボーイが乗る小柄な馬)に乗ったことがあるのだが、人間でも四つん這いにならないと登れない急坂をワシワシと躊躇せず一気に登る馬の登攀技術と心肺の強さに驚愕した。あの楽しさがこのゲームの中で味わえる。
そして風景は俺ゲーム史上べストだな。同社LAノワールの方が1年新しい分グラフィックスは緻密で、あちらは都会なので建物等の細かな描き込みもすごかったが、こちらはアップ&ダウンのある地形に満ちていて素晴らしい。ゲームで行く高いところは最高だ。
8月6日
ボニーは牧場の居候にすぎない俺をお父さんにまで会わせてくれた。俺は既婚者らしいので彼女との仲が深まることはなかろうが、好意を寄せられるのはうれしいものである。頑張って牧場で働いてしまう。今日は荒馬ならし。俺は馬に乗るのもうまいらしい。
並行して進めている町の保安官助手仕事では強烈な銃撃戦に連れて行かれた。俺のライフルの腕は神がかっていて、どんな遠距離でもピタリと照準を合わせてくれる。気持ちいい。あまり説明がなく混乱の中での戦いが多くアタフタしてるのだが、徐々にカウボーイと保安官助手の仕事に慣れてきている。
ただ名誉と金は順調にたまっているのだが、レベルアップがあるわけでもなく買う物もなく、どう進めていくのが一番楽しいのかがよくわからない。この辺が洋ゲーらしい。牧場と保安官の2系統のメインミッションをやるだけではちょっと薄味で、コントローラを離しがたいほどの盛り上がりはないんだよな。RPGみたいにプレイするほどに経験値が貯まり成長するわけでもないので。
とりあえずネットで地図を手に入れて、この地域は探査したとマークしていくことにした。別にその地域探査で宝を探すとかのイベントはない(ランダムに暴漢や狼に襲われたりするだけ)。なくてもまあいい。景色がいいのだから、それを全部あまさず見にいこう。
8月10日
あちこちでギャングたちが牧場を襲っており、それを俺と保安官が追いかけ掃討している。いくらなんでもこんな無法状態では、いかなる市民生活もやってられんではないか20世紀初頭アメリカ西部。一体どんだけ文明社会と隔絶してるんだと呆れる。大正3年だぞ。ニューヨークじゃジャズとモダンガールの頃だろう。
世話になっているボニー一家にもギャングの魔手が迫る。ボニーにもし怪我などされた日には、彼女に命を救われ恩のある俺は、こんなゲームなどやる意味ナッシングである。なんとしてもこの農場に平和をもたらさねばと必死に戦いましたよ俺ジョン・マーストンは。ふー。許せんなギャングたち。メラメラ燃えるウェスタン映画展開である。
8月11日
ボニー牧場の危機は俺の頑張りで収まったようで(米ゲームにおけるストーリーは会話でのみ語られるので、どこのギャングだったのか、それを俺は殲滅したのかがよくわからない)、いまは詐欺師やら死体漁り人やらやたら多弁な連中の長話を聞かされつつ長駆移動し、行った先で銃撃戦したり馬のレースで資金を稼いだりと、毎日似たようなことをやらされている。
これはマーストンの真の敵を追うための準備らしい。世間に見捨てられたルーザーたちに助けられ武器を集め巨悪に立ち向かうというストーリーの味付けなのだとはわかるけども、見たこともないし何をしたかも知らない”俺の真の敵”をこんなまわりくどい方法で追うことに、あまり気持ちは入らない。それにとにかくアメリカ人喋り過ぎだろ。うるさいよ。ここのあたりかなりプレイ意欲が減退しており、もう死体漁りたちの話は聞かずに進めている。
ボニーの手伝いや護衛だったらやる気がするのだが、ボニー関連のミッションは全部終わってしまったらしく会えない。ドアを叩いてもノー・リプライ。ため息。
そしてこのゲームは、実はメインミッション以外やることがない。サブミッションは5本ほどやったが解決不能案件ばかりだった。夫を探す老女や誘拐された子供を探しに行くミッションをこなして、特に解決していないのに「ミッションコンプリート」&名誉点アップとなる。なんの達成感もないのでなんだこれはとやる気を失い、以降全部無視している。
馬でどれだけ野山を歩いても花摘みとつまらぬランダム野盗イベントしか起きず、探索要素もない。町では銃弾くらいしか売ってなく、服を買うこともできない。町の人たちはまったくのモブで話せないので、情報を集めることもできない。これまでプレイしたアドベンチャーゲームの中でも、やることのなさはトップクラスである。
この調子ではストーリーが盛り上がらないとこれ以上プレイする意欲が湧かないわけだが、Xbox 360 史上に残る傑作だと誰もが言ってるわけで、ちょっとレビューを探して面白いんだと俺を信じさせてくれる記事を探し出したい。
8月12日
地図を開くと、近くを汽車が通るアイコンに気がついた。汽車はたまに見かけるが、地図で運行状況が見えるとは気づかなかった。通り過ぎる汽車をカッコいいなあ乗りたいなあと眺めつつ、…乗れるかな? と馬を並走させボタンを押したら飛び乗れた! やった。
このゲームは右親指でAボタンを押してないと馬が止まってしまうので、移動中右視界レバーを操作し景色を見渡すことができないという大きな欠点がある。本当の馬は人が何をしていようと進んでくれるし道をトレースしてくれるぞ。なので馬を制御しなくていい汽車の上から、今日はじっくりと景色を楽しんだ。次の汽車を見つけたら延々終点まで乗ってみよう。
8月13日
最初の地域での仕事がようやく終わると、俺は敵を追いメキシコに行かねばならなくなった。メキシコて。こないだ遠乗りで見たあの川向こうの外国やないですか。
とりあえずこの先ここに戻れるかもわからないので、ボニーに別れを告げに行くが今日も留守。もう君には会えないのか。伝言さえ残せないのかい。
この土地を離れる前に、天気の良い日を選んで念願の地域一周列車旅に出た。緑多く美しい土地だったよ。――あ! ここはボニーの農場じゃないか。
第2章-土と暴政の国メキシコ
8月15日
メキシコへやってきた。苦労して川を渡ると、案内役がここから先は覚えてない勝手に行けという。なんでこんな酔っぱらいの言うなりにこんな所へ来ちゃったのかと、俺は途方に暮れた。景色はすごいが、町へ行けば周りはスペイン語で言葉もわからないし。
とりあえず昔の敵を追うというストーリーにそんなに気持ちは入ってないので急いで進める気もせず、赤土の荒野をブラブラと馬で歩く。この会社の次回作「LAノワール」のほうがやることが明確でサクサクと進みテンポがよかったが、このゲームの高低差のある風景は素晴らしい。
しかしメキシコというのは土でできた国だ。建物も全部土でできてやがる。丘の上で飛行機を作りこの谷を飛びたいんだという宮﨑駿みたいなエプロン男がいた。接着剤の材料がほしいという。この谷を人が飛んでアメリカへ渡るなんて、そんな光景は見てみたいな。しかしそれを見るには草や動物の皮を計25個も集めなければならない。俺がです。やれる気がしない。
8月23日
メキシコの荒野を野犬に追われつつ10分ほど駆け町に着く。メキシコ保安官の話を延々と聞き、ここでもなぜか信用されて雇われ機関車の護衛に就き撃ち合い。うーん、ゲーム序盤からやってることは同じ感が濃くなってきた。このゲームの評価の高さはどこからくるのだろう。
ストーリーがいいという話は聞くが、第一部牧場編が終わってもまだ敵との過去のいきさつなど何も説明されてないし、ボニーと会えなくなってからは生活にうるおいもないのです。LAノワールは恋人に相当する人など出てこなかったが、連なっていく事件の重さが刑事魂を掻き立ててくれたなあ。常に相棒がいて話も聞いてくれたしな。
ライムスター宇多丸 #マイゲームマイライフ でゲストが、「自キャラに名をつけ見た目をエディットして自由にやっていくFallout等ベセスダのゲームは自分に合わない、RDRなど固定されたキャラをプレイするロックスターゲームは、その人を演じる体験を得られるから好き」といっていて、同社LAノワールでまさしくその映画の役を演じきる面白さを体験したなあと思った。RDRは今のところ台本が俺に届いてなくて、監督の言うまま右往左往してるだけな感じ。なんとしても敵を追い詰めたいという気持ちになってこない。はよ物語がドライブする台本ください。
8月27日
第二章メキシコ編の序盤が終わった。この章で出会った老ガンマンに聞かれ、俺が初めて過去を少し語る。このガンマンはまあいいが、他は実にくだらぬ男ばかり出てくる旅で、気が滅入る。ストーリー自体正直あまり面白くもない。メキシコの女狂いの軍指導者のくだらぬ戯言とか聞いても、知らんよ早く革命で倒されてくれよとしか思えないじゃないですか。
しかしメキシコ女性の家族を助ける章に入り、やっと物語がのってきた。暴力と権力が支配するこの世界の男たちとは付き合いきれぬが、彼女たち弱者を助けるためならば、頑張れる。
メキシコ編終盤のこの砦襲撃はすごかった。RDR の銃撃戦はこれまでに俺がやったシューティングと比べてもベーシックなものだが、舞台装置の派手さがあって楽しい。しかしこういう銃撃戦ゲームをやっていると、誰がいつ誰を撃ち誰が死んでもケセラセラだという、暴力世界のランダムさ・無常さ・虚無を痛感する。戦争も同じだ。NHKスペシャルを見てそう思うのだ。
8月29日
メキシコ編が終わった。20世紀初頭のメキシコが実際そうだったのだろうが、軍の暴政と狂信的な反乱軍と、百姓の血と涙と土でできたような国で、気が滅入る話であった。アメリカに戻るとこんなに町はきれいで都会で平和で、なんという違いなのかと彼の国の不運を思う。
メキシコ編は楽しい旅ではなかったが、しかし革命と復讐に酔う女闘士ルイーサには心惹かれた。彼女とその恋人の反乱軍リーダーが革命を成し遂げることなどきっとないだろうと思いながらも、できる限り彼女を助けたいと思った。彼女に頼まれた爆弾仕事は楽しかった。彼女と出会わなければ、このゲームをリタイヤしてたかもしれない。
第3章ーマーストンが旅をする理由
8月30日アメリカに戻って訪れた町ブラックウォーターは、LAノワール級に作り込まれた美しい町だった。町には汽車に乗って着いたのだが、客車に乗ってた貴婦人が到着時にホームに降りていくのが見えた。もしかしてこんなモブキャラの彼女にも家があるんだろうか? https://
あったらすごいなと後ろを着いて歩いてみると、町中を歩いては建物の壁にもたれて休んだりベンチに座ったりと、簡単なAIに従って行動しているようだった。さすがにモブ1人1人に家はないか。しかしAIよくできてる。美しい町なので観光がてら、何十分も彼女と一緒に歩いてしまったw
序盤から名声を積んだ俺はこの地方でちょっとした有名人なのか、マーストンという名前をささやく人が通りにたくさんいる。新聞を買えば、俺が昨日まで一緒にいたメキシコの反乱軍の記事がトップに載っていた。「アメリカ人の傭兵がいたという目撃談もある」という行が目に入る。俺のことだ。こういうディテイルが良い。
9月1日
3章のここにきてやっと俺ジョン・マーストンが何のために旅をしていたのか、理由が明かされる。ストーリーのつじつまが合って納得したが、ここまで引っ張る必要があったのかは疑わしい。この旅の理由を知っていたら、俺は1章2章ともっと気持ちが入りエクスペリエンスの質が上がっただろう。知らずにプレイした2章の味気なさはやり直せない。昔なじみだという知識だけで憎しみも怒りもない見知らぬ敵を、メキシコくんだりで延々探すのはキツかった。
9月3日
インディアンを科学的に蔑視する科学者などが現れ、当時の世相が会話から伺える。そういえば冒頭ムービーの列車に乗っていた宣教師も、インディアンを救ってやるのだとか言っていた。同社のゲームをやると、今まで知らなかったアメリカを見ることができる。1950 年が舞台の「LA ノワール」をやったときも、戦争直後のアメリカってこんなだったのかという発見があった。
第3部以降はストーリーも合点がいき、淡々と終わりに向けてプレイしている。銀行強盗を狙撃するミッションなどは面白かった。悪漢を追って山の壁を登る等アクション性が少し加えられたが、他のゲームに比べればまあ超ベーシックなものである。
◇ ◇ ◇
英語字幕を読んでいて意味が不明なところがあって Youtube で日本語版の字幕を読むと、ああそういう意味か、よくそれを読み取れるなと翻訳の品質の高さに驚く。
The last thing I want to do is 【make】 martyrs out of all these people.
◇ ◇ ◇
英語字幕を読んでいて意味が不明なところがあって Youtube で日本語版の字幕を読むと、ああそういう意味か、よくそれを読み取れるなと翻訳の品質の高さに驚く。
The last thing I want to do is 【make】 martyrs out of all these people.
(やつが)殉教者として【祭り上げられる】のは避けたいからな。
He 【can be】 killed by some petty squabble by another low life.
他のろくでなしとのつまらぬいざこざで死んでくれれば【好都合】だ。
【】部分は原文にはない超訳で、しかしそう訳したほうが明らかにイイわけである。これは文学レベルの翻訳だろうおそらく。すばらしい。この仕事が俺に来ていたら、ここまで思いつけただろうかと感心してしまう。
第4章-旅の終わり
9月10日
今日俺がプレイしているとき部屋に娘がいて、ゲームの主人公たちが交わす愛憎入り交じる荒くれ会話を聞いていた。「聞いた? こういうゲームなんだよ。会話を聞くのがゲームのメインなわけ」と説明する。他にやることがあまりないんだよね。
アメリカ製巨大ゲームの大半は、テキスト(文章)でできている。ゲームの各章クライマックスの砦襲撃などは、無数の敵味方の攻防が見事にプログラムされていて楽しかったが、そうした銃撃戦や牛追いなどのプレイ時間総計より、会話シーンのほうがおそらく長い。
そしてそのテキストがイイわけなのだ。惚れ惚れするようなドライで皮肉なハードボイルド台詞に満ちている。アメリカ人はこういう会話劇が好きなんだろう。
ロックスター社はこうした台詞の精緻さで、役者として映画に出演しているような体験を味あわせてくれるのだが、俺は同社次作「LAノワール」のフェルプス刑事のようには本作の無法者ジョン・マーストンに同化できなかった。台詞は秀逸だしジョン・マーストンはイイやつだが、ストーリーのプロットはそれほどでも…という感じであった。◆
■感想
「ジョン・マーストン一代記」
というわけで、Xbox 360 史上に残る傑作という名高いこのゲームを以前から楽しみにしていたのだが、思っていたのとかなり違った。評判と俺のこの感じ方の違いはなんだろうと思い、いろいろと感想記事を読んだり、日英のゲーム関連ポッドキャストを聞いたりした。
このゲームは「ジョン・マーストン一代記」的な三部作ほどの架空の映画があって、その三部を抜き出したものだといえる。
【第一部】ギャングたちと育つ少年時代(ギャング団には当初反乱軍・義賊的なところがあったと何度か言及されている)
【第二部】ギャング団が腐敗凶悪化していき、マーストンがグループを離脱。
【第三部】(本作)ギャング時代の罪を贖う(リデンプション)ために旅をするマーストン。
同社の次作「LA ノワール」でも思ったが、ロックスター社のシナリオはどう考えてもハリウッド映画に劣らぬ才能によって書かれており、ゲーム内の台詞のキレが素晴らしい。お互いにかすかに好意が感じられる女牧場主ボニーとの会話に心温まり、敵が投げつける激しい言葉に返すマーストンの機知にしびれる。日本のゲームとは違った骨太でドライな文学性がある。ストーリー展開はさほど面白いとは思わなかったが、台詞の文体自体に何とも言えない魅力があるのだった。
プレイしたのは英語版だが(英語字幕付き)、Youtube で日本語版の字幕を見るとその翻訳も、恐れ入るくらいうまかった。交わされる台詞のドライさ、愛嬌、にじみ出る親愛が完璧に伝わっていた。もしたまたまつけた TV でやってるこの映画を見たら、同じように台詞のキレに惹かれ最後まで見ちゃっただろうと思う。
しかしこのゲームでプレイヤーがやることは基本的に、銃撃戦+会話を聞くだけなのが単調でつらかった。
銃撃戦は位置取りなど工夫ができて面白いが、どんな地形でもやることは障害物に隠れ徐々に詰めていって全員倒すだけだし(敵がこちらに詰めてくることはない)、ストーリーとはすなわち会話のことで、これがとにかく長い。結果としてこのストーリーを味わうために、あれほどの距離を走り長話を聞かされたのかという思いが最終的には残った。
◇ ◇ ◇
「その気にさせてくれない不自由さ」
このゲームでは町の人々とは一切話をすることができない。ミッション時に長い会話を聞かされる以外誰ともコミュニケーションできない。最も親しくしていたボニーさえ、彼女に設定されていたミッションが終わると背景に溶け込み消えてしまったわけである。
俺マーストンは敵を追う流れ者だから、いずれにせよボニーの牧場にいつまでも留まることはできない。しかし永の別れとなるだろうボニーに礼を言い別れを告げることもできないなんて、これは悲しい。こっちはロールプレイしてジョンマーストンになりきってるのに、ゲームは次へ行っちゃってるのである。「正義でも悪でも、何をやってもいい」と自由度を謳う米オープンワールドゲームだが、会いたい人に会いほんの少し言葉を交わすという小さな自由が、このゲームにはなかった。
ドラクエならもしボニーが不在なら、牧童が「彼女は東部の親戚に会いに行っているよ。よろしくって言ってたよ」くらいの言葉をくれるだろう。それで俺マーストンは寂しさを噛みしめ、ハードボイルドに次へ向かうことができる。自分のなりたい気持ちにさせてくれるのがゲームの自由なのではないだろうか。ミッションを達成する順序とか敵殺生の選択だとかを自由だとは俺は思わない。
俺は悲しくてわびしくて、せめてものお別れにとメキシコへ向かう汽車の上から、ボニーの白い家に手を振ったわけですよ。センチメンタルジャーニーでしたよ。
このゲーム最大の魅力はストーリーだというのは誰もが思うところだが、俺にとって自分が追う敵は会話の中に登場するだけのストレンジャーで、怒りや憤りといった感情を抱くことは難しかった。エンディングに向かっていく終章も、映画「ジョン・マーストン一代記【第二部】マーストン、グループ離脱の巻」を見てない俺は、大きなシンパシーを抱けなかった。前作を見てない映画でも想像して感動することもあるが、ここではできなかった。そこがこのゲームを愛した人と俺の感じ方の違いなんだろう。
このゲームで俺の心が一番センチメンタルに揺れたのは、世話になった愛らしいボニーに別れを言えなかったという、小さな失望だったのである。(終わり)