2025/04/14

80年代YAMAHA池袋東ショップの思い出

(轟音パンクながらレコードデビューまでこぎつけた、わが80年代バンドの回顧夜話往復書簡)

 
  (ごきげんダンサー/Abnormal Stripper, 1982:
筆者サカタ(左)とバンドやってたペナペナguitar久保元宏の評論サイト「共犯新聞」より)

ハッピーバースデー久保くん。おとといはテラも happy birthday to you too。このYAMAHA池袋東ショップの店頭ライブはほんと懐かしい、バンド解散以降初めて聴いたかもしれない。カセットと詩集のキットを通販してたとき、このテイクを何十回もダビングしたなー。

【YAMAHA池袋東ショップの思い出】

どういう流れからだったのか、俺たちは地元三多摩からだいぶ離れたYAMAHA池袋東ショップからコンテストEastWestに出るようになり、全面的に支援してもらったんだよね。俺たちの曲「戒厳令の街」を愛する志村けんみたいな店長格のおじさんと、梶芽衣子みたいな女性マネージャー、そしてEastWest担当のヒゲのチーフ格が目をかけ推してくれた。

スタジオを使わせてくれ、レコーディングしてくれ、楽器を修理してくれ、この録音の土曜午後の店頭ライブに何度も出してくれた。クスクス笑いながら通り過ぎる池袋女子高生の脚を止めようと燃えたな。

(注:当時ヤマハの有力店は、いいバンドを発掘しEastWestを通じ店から送り出すという使命と理念を持っていて、サザンオールスターズがその最成功例だった。池袋東ショップもアナーキーなど名のあるバンドを多数輩出していた)

(「パレスチナの憤り」)

ビクターの千駄ヶ谷スタジオでサザン担当エンジニアに「パレスチナの憤り」のデモテープを録ってもらったのもYAMAHA池袋からの紹介だったろうし、あのテープで世界が大きく広がった。

美大の連中と知り合ったのも、EastWest池袋代表の同期として日芸のバイタ(Vita)と仲良くなったからだ。日芸や武蔵美の学祭に呼ばれ、そこからインディーズの覇者アレルギーとつながり、東海道サマーツアーに同行できた。その後のバンド人生が決まっていく時期だった。あれほど大人の世話になったことは他になかった。

彼らのためにも中野サンプラザのEastWest決勝に進みたかったけど、俺たちは地区大会を勝ち上がりつつ渋谷エピキュラスの東京大会止まりだった。バンドも店のスタッフもガックリと落ち込んだな。あれって振り返るとほんとバンドの甲子園だよね。



翌年「パレスチナの憤り」をひっさげ、同時出場の聖飢魔IIを破り(笑)マツダカレッジコンテストに勝ち名を上げレコードデビューとなるのは池袋の彼らも見てたろうから、少しは喜んでもらえたかもしれない。マツダを勝ち勢いがあった頃、一度くらい池袋に挨拶に行けばよかったと今は思う。当時は分からなかった。YAMAHA池袋東ショップは今は音楽教室だけになってるそうだ。

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久保制作の映像はジゴロと、対照的に土着的フォークダンス風ディスコ民の風景。俺たちはその中間あたりにいたダンサーだったんだろう。激しい曲が増えたバンド後期にはやらなくなったRC的な軽みのある曲で、この歌が好きだと言ってくれた人も多かった。イージマの歌がよかったことをよく覚えてるんだけど、演奏もいいね。
 
(GtトモサカタBa池上DrテラダヤVoイージマGt久保)
アブストを聞くと、このアレンジ、フレーズをよく俺たちは思いついたなと思うことが多い。俺のギターでいうとBメロのリフがカッコいいし、歌に合いの手を入れるオカズもギターソロも、えっと思うほど大胆だ。今なら自意識過剰であんなワイルドなソロは弾けないな。怖さ知らずの若さがある。楽器の音もとてもよくて、テラのドラム音も深く気持ちいい。さすがヤマハで機材がよかったんだろう。ギターは映像にも映ってるグレコ・ブギーかな。
 
最後の長い長い長いギターソロ合戦も大胆というか、なんであんなことをやってたのか今となっては意味がわからない(笑)。池上ウォーキングベースがカッコいい。そこにトランプが延々映ってる映像の意図もわからんが、しかしほんと大人のいまから見た自分たちの若さに打たれたよ。英訳もよくできている。ハッピーバースデー、テラと久保。Keep On Rockin In The Free World!

ドラマーテラ👍 久しぶりに聞いたけど、すごくイイ! おとぼけなシャリからワイパーみたいに~のメロディとギターのリフが見事だ。ワクワクする。最後のギターソロとブギウギリズム。ストーンズかツェッペリンか?笑 歌メロディのバリエーションがすごいね、マジで。
すごくイイ。大胆というワードが出てきたけどサビの大胆な王道ぶりが気持ちいい。このコミカルというか軽さ後期も持っていればよかったなと思う。清志郎や加藤和彦、ディランとかはシリアスとコミカルの絶妙なバランス感覚があったよな。

そう、後期はロケットのような轟音バンドになっていったよねえ。それで行けるところまでは行ったと思うけど、ふわりと浮遊するような巡航もできたらよかったよね。当時から軽い曲は「失われたヒヤシンス」しかないとセットリストづくりに悩んでたもんな。

作曲者guitarクボ:後期アブノーマル・ストリッパーのリリック&コンポーザーとして、寺田谷さんのご指摘は反省しています。アブストのインテリのみなさんはすでにお気づきでしょうが、久保は軽い外見ですが、実は誰よりも暗く重い。そこが欠点でした。

サカタ>YAMAHA池袋東ショップは今は音楽教室のみになってるそうだ。  
↑ ■1980年代前半は、『ヤマハ池袋店』とゆービルで、1階に広い楽器売り場があって、たぶん2階にスタジオがあった。で、1階の店舗ではインストア・ライブを何度もした。
 
そのスタジオのあるフロアにヤマハがバンドを10~20ほど集めてミーティグ(?)のようなことをしたことがあって、 その時ヤマハの人が「埼玉県和光市のパンクバンド、アナーキーも、ここヤマハ池袋店から出たバンドだけど、同じパンクバンドとしてくくられるアブノーマル・ストリッパーは歌詞が違う。アブストの登場は、日本のパンクバンドをアナーキーから次の段階へ移行させた」 と、解説してくれた。
この「ヤマハの人」がサカタが言うところの「志村けんみたいな店長格のおじさん」なのかもしれない。
  
久保が発行していたバンドビラ
「共犯新聞」。ネットで今も継続中。
次回のライブのフライヤーを彼らに配ると、そこに書かれていた「ロックは解放をめざす!」とゆーキャッチ・フレーズに対しいかにも音楽業界人という感じのヒゲ男爵が、「ぼくらの時代は、”ロックはバリケードをめざす”がキャッチ・フレーズだったんだよね。」と、つぶやいた。 もちろん私はそれを知っていて、だからこそ、それを更新するキャッチ・フレーズを作ったのだ。
 
全大全共闘が主催したコンサート『ロックはバリケードをめざす』は1969年10月28日に東京・お茶の水の全電通会館ホールで開催され、遠藤賢司、からっぽの世界 ジャックス早川 義夫、バレンタイン・ブルー(はっぴいえんど 風街ろまん - 1971年11月20日はっぴいえんどの前身)、ブラインド・レモン、ジェファーソンなどが出演した。我々、アブノーマル・ストリッパーは、それら のバンドの後継であり、同時に更新する存在である気負いが、「ロックは解放をめざす!」とゆー私の言葉に結実したのだった。それはサカタの〆の言葉 「Keep On Rockin In The Free World!」から1mmもズレてはいない。 
若い女子店員2人が、我々が渋谷のライブ・ハウス『屋根裏』だったかに出演した時に観に来てくれたよね。なぜか、彼女たちとベース池上が仲良かった。
>イージマの歌がよかったことをよく覚えてるんだけど、演奏もいいね。  
↑■飯島が歌詞ごとに表現を変えて歌っているのは、丁寧に聴き込むほどに分かる。つまり、歌詞を深く理解していたんだね。裏声ギリギリの声色で「俺は たいした 奴じゃないが」と歌うのは忌野清志郎っぽいが、毒舌フレーズではダークに突き放して歌っている。そして、それぞれが魅力的に融合している。

>マツダを勝ち勢いがあった頃、一度くらい池袋に挨拶に行けばよかったと今は思う。当時は分からなかった。

↑ ■優しいサカタらしい気付きだが、そう言われてみれば、その通り。 だが、さらに振り返れば、アブノーマル・ストリッパーは、とゆーか、私は、バンド時代の4年間で、「俺は お前に 別れを告げよう」を曲がり角ごとにやった。その最初が、このYAMAHA池袋東ショップで、さらにM♂D♀KI=戸田康司、ライブ・ハウスの目黒キャット・シティ、ジャガタジール、最後にはアブノーマル・ストリッパーそのものなど&など。 だから「ごきげんダンサー」は、その後の私の裏切りを予言、もしくは宣言した曲と聴くこともできる。いつかサカタが書いていたように、「久保は優しくて、同時に残酷だ。」ってことだ。
 
歌詞「別れを告げる」は、のちの曲「お前は亡命者」にも出てくる。今から俯瞰すれば、「お前は亡命者」ができたから、もう同じテーマの「ごきげんダンサー」は同じライブで演奏する必要が無くなった、とも考古学的に分析することも可能だ。

そう「志村けんみたいな店長格のおじさん」が、アブストの歌詞に深く共鳴してたおじさんだね。梶芽衣子おばさんも同様だった。もう一人ラガーマン的体型で口ひげのダンディな、EastWestを仕切るおじさんもいて、それが「髭男爵」かもしれない。みんな学生運動の世代だった。日本ロック第一世代に俺たちの歌が強く響いていた。

渋谷エピキュラスでヤマハ東京?主催のアマチュアバンド合同演奏会があって、そのライブ盤もYAMAHAが作ってくれたな。当時パンキーだったレベッカも収録されていた。音が深く伸びがあるフュージョンタカナカ向け楽器だったYAMAHAの楽器を使うロックバンドなんて皆無だったのに(笑)、考えられない親切さだった。EastWestも今はもうない。ヤマハと社会に余裕があり、 アマチュアと若者に優しい時代だったんだと思うよ。

そう、池袋東ショップにはTV局女子アナのようにかわいらしい店員が二人いたことも思い出した。屋根裏に来てくれたことは覚えてない。女にモテる池上が対応し て、俺たちは話す機会がなかったのかもしれない。きれいなお顔も思い出すな。デジカメの時代だったら、あのなつかしい店と彼女たちの写真も残っていただろうねえ。

とにかくあの店のみんなからまるでスターの卵のように愛されていた。あれほどよくしてもらったのにEastWest二度目の敗退でスパッと縁を断ち切ってしまった自分たちの行動が今となっては謎で、だからマツダ優勝後に挨拶くらいしに行けばよかったと思うわけなんだけど、
 
> その後の私の裏切りを予言、もしくは宣言した曲と聴くこともできる

久保の最後の別れの曲「空中ピラミッドの生活」に結実した It's All Over Now、もう終わったことだぜ的な若きロックンローラーの残酷な潔癖さが、バンド全体にあったのかもしれないね。「すべてが駄目になる今夜/すべてをゲームだと思い/空中ピラミッドで生きている/ぼくの歪んだ才能」と歌ったあの頃。

ラママ大森さんにも世話になった。共に
企画したオールナイトはすごい面子だった。
有頂天、あがた森魚、ゼルダ、筋肉少女帯、
町田町蔵、アレルギー宙也etc etc。
作曲者guitarクボ:寺田谷@ドラマーが「このコミカルというか軽さ後期も持っていればよかったなと思う」と指摘してくれたように、 確かに「初期」1981年に作ったこの曲と、「後期」4年後の曲やステージングは、まるで変った。 
1984年12月30日の澁谷ラ・ママでのアブノーマル・ストリッパー企画のオールナイトイベント『共犯GIG~ノンセクトラジカルパーティー』を終えた後、 私はラ・ママの若大将=大森常正から事務所でふたりっきりになった時に、「アブノーマル・ストリッパーは最近、ザ・スターリンや筋肉少女帯に寄り過ぎている。」と言われた。 

それは、苦言とアドバイスが混じった苦い言葉だったんだけど、そのヒントが「ごきげんダンサー」にあったとは、私は今年の誕生日まで気が付かなかった。大森さんにとって我がバンドが特別だったから、語ってくれたのだろう。 

その大森さんの進言を私はいまだに忘れていないのだから、その言葉と自分の表現とのシンクロの位置をまったく新しい次元に定めようと悩んでいた。 それでも当時の私は、まだ&まだ、「フリクション・シアター」や「空中ピラミッドの生活」など推進力あふれる曲を作り続けていたから、大森さんの言葉は保留のままだった。 一方の大森さんは、自分の言葉の延長に、ザ・イエローモンキーを見出し、育てたのだろう。(注:大森常正氏はイエローモンキーのマネージャーにして事務所社長)
 
これらは表現という、正解のない宇宙でのできごと。

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