2005/11/30

追憶の調布関東村(4)ゴールデンブラウンの立川基地

05/11/30 by サカタ@カナダ
(4)ゴールデンブラウンの立川基地

芝公園公太郎さんの「廃墟デフレスパイラル」から写真をお借りして、立川基地についても少し書き留めておきたいと思います。油写真館「立川基地の廃墟」というサイト、および「米軍立川基地の残骸」というサイトにも、印象的な写真が多数残されています。



立川基地跡はキノコの隊長と、彼の古い友人である相方が受け持っていました。勤務が決まって初めて立川基地に入ったとき、「こんな戦場跡(立川基地は軍需工場だったので戦時中爆撃を受けた)に泊まり込むのは気味が悪い、代わりが来てくれて助かった.....」と話す前任者の言葉を聞きながら、キノコ隊長のまなこは眼前に広がり波のようにうねるススキの草原に釘付けになったのだそうです。あれはゴールデンブラウンという色じゃないのかなと、絵描きらしく絵の具の色で説明してくれました。




立川基地のススキの海(C)芝公園公太郎



思い描いているんです、思い描いているんだよ

70歳になったら僕はすっかり老いぼれて
寝袋を抱いて子供のように眠っているだろう
だけど僕が死ぬときはどうか皆さん
枕元で僕を覗き込んだりしないで
僕はもうそんなところにいないんだから

きっとどこかの深い深い森の奥で
灰色の大ギツネのように昼寝中なのさ

それともアミガサタケの出る四月の立川基地の
広い広いススキの海の入り口あたり

僕はいつもとめどなくとめどなく
僕のギターを弾いてるだろう
(タイドプール「ハードレイン」詞:キノコの隊長)


崩壊跡(C)芝公園公太郎



基地内には警備員たちが「象の墓場」と呼んでいた、戦前からの木造工場の崩壊現場がありました。彼らの勤務開始時にはまだかろうじて建っていて、それが崩れる轟音を事務所で聞いたそうです。「無人の森で木の倒れる音はするのだろうか」という観念的な命題がありますが、なにかそれを思わせる話。当時は真っ白に退色した古材が一面に広がり、本当に象の墓場のようでした。この写真はかなり色が暗く鉄筋らしきものも見えるので、別の崩壊現場でしょうか。

塔 (C)芝公園公太郎

これは「エンジンテストルーム」と呼ばれていた塔。本当にエンジンテストを行った場所なのかは不明ですが、がらんどうで、飛行機の星型エンジンをかぽっとはめるのにいかにもぴったりなくぼみを持ち、音が漏れないようになのか窓がなく、真っ暗な塔でした。

巨大工場跡 (C)芝公園公太郎

こうした工場には戦前日本軍時代のものも残っており、調布基地関東村をなつかしみ往時の住民がときおり訪ねてくるのと同じように、立川基地には戦前「陸軍航空工廠」で働いていた人が来ることがあったそうです。おじいさんたちがかつて働いた工場の中で、ここで爆撃を受け死んだ友人の名を呼び肩を抱き合って号泣なんてことがあったとのこと。このフェンスで囲まれ時間が止まった場所というものは、人々の強い想いも囲み、いつまでも保管している気がします。

煙突と工場 (C)芝公園公太郎

3本のお化け煙突が立つ工場は食堂棟だったと思いますが、松任谷由実の「ランドリーゲート」から道が続くランドリー工場だったかもしれません。隊長に連れられ巨大飛行機工場、巨大エンジンテストルーム、巨大食堂棟、象の墓場、森にうずもれたプール、そしてシェルター(地下壕)と次々に見学しながら私は、えらいものを見てしまった、こりゃモンスターだと思っていました。立川基地は私たちが関わった米軍施設跡の中で最もスゴく、そして当然ながら最も戦争の色がつよく残っている場所でした。
エンジンテストルーム屋上から望む三本煙突。お化け煙突は「戦前陸軍航空工廠機体組立工場への熱源供給に使われた」という資料を2021年に発見(pic by 弟)


こうした写真を見てあのときの鳥肌立つ気持ちを反芻しながら、キノコ隊長と相方の心は何歳になっても、ゴールデンブラウンの草原とアミガサタケのあるあの立川基地のランドスケープに帰っていくのだろうなと思います。アミガサタケは関東村にも出るスポットがあり、隊長から調布隊員への申し送りにも当然、その場所を観察し守れとの指示が含まれていました。実にうまかったな、アミガサタケのクリームシチュー。

2005/11/27

追憶の調布関東村(3)府中基地キノコの森

2005/11/27 by サカタ@カナダ

(3)府中基地キノコの森(1990-1994)

府中基地バードハウス前(1989年)
調布基地関東村での勤務開始時、基地警備先輩であるキノコの隊長はサカタ隊員の受け持ちとなった関東村構内(2000年から東京外語大)、関東村飛び地(現味の素スタジアム、当時はただの草っ原)、そして府中基地跡(2016年時点でまだ現存)を案内し現地指導してくれました。戦前は陸軍燃料廠だったという施設です。

しかし、関東村構内では「この倒木にはいいエノキが出るんだ。こっちにはヒラタケが」と樹木のヘコミみたいなところばかり念入りに紹介し、飛び地の原っぱでは「ここは本州で唯一ニオウシメジが出た場所なんだ。また出るかもしれないから見逃さないよう注意」と申し送る。この隊長はいったい何のために仕事を教えてくれているのか、よく分からないのです。

彼とはバンドを通じて学生時代からの付き合いで、この頃は一緒に演奏したりもしていたのですが、遊んでいても音楽をやっていてもとにかく独創性がほとばしる骨柄で、仕事を共にしてもこの通り。本人はこれをまじめに言っているのだから恐れ入ります。

立川、府中、関東村の米軍基地跡に残された森は、なにしろ70年代から20年間フェンスに囲まれ人跡未踏の地なわけですから、都内平地とは思えぬキノコや野草の宝庫となっていました。その基地での警備仕事が契機となったのか、彼はこの頃写真機器を大量に買い込み、各基地跡を含む野山での探索→写真撮影→調理というキノコ道を究めつつありました。それがそのまま彼の蒸気機関車に石炭をくべ、現在は雑誌等にものを書く真のキノコ者となっているそうです(追記:2016年に彼は何冊目かの書籍を出しました。野外料理の美しい本)。歌もちゃんと歌ってるのかなあ。―――1・2・3・4、3・2・1・0。俺の気持ちは変わらないよ。


Funky Goods「府中基地跡(2003)」 

さてその私のもう一つの管轄地であった府中基地跡は、波多利朗さん (Studio Pooh & Catty) の「Funky Goodsと、芝公園公太郎さんの「廃墟デフレスパイラル」(閉鎖)に写真が残されていました。

いずれも近年の撮影なので、私が知る頃と内部の様相はかなり変わっているのかもしれませんが、お二人は素晴らしい記録を残してくれ、その借用を快く許してくださいました。ありがとうございます。オリジナルページでそれぞれの写真に付けられた波多さん芝公園さんのキャプションが味わい深いので、上をクリックして元のページをぜひご覧ください。「Funky Goods」には調布関東村の 2005 年現在の姿も収められています。




府中基地内道路 (C)Funky Goods

府中基地跡の構内は、木と草と落ち葉に侵食され狭まり、車で通れる箇所が限られた道路が走っています。立ち木が折れて構内道路に落ちると、次に除草業者が入り片付けてくれるまでそこは車で通れなくなってしまいます。その間警備員は車が入れないエリアを、徒歩でトボトボ巡回したのです。



バードハウス (C)Funky Goods

南西のゲートから入ってすぐにあり外からも見える、隊員たちがバードハウスと呼んでいた巨大ながらんどうビルディング。元はなんだったのかまったく不明。


バードハウス内部(pic by 弟)

4階相当吹き抜けのはるかな天井に多くの鳥たちが巣を作っており、足を踏み入れると「バサバサバサ・バサバサバサ」という威嚇的な羽音が虚空に響き渡って、ヒッチコック的な戦慄が味わえました。


緑の洪水(C)芝公園公太郎

府中基地では半端ではない勢いで緑が増殖しており、このように完全に草に埋もれ入れない建物も多数ありました。


緑の津波(C)芝公園公太郎

この調子ですからもう。草木の王国府中基地。日々拡大するジャングル。やはり日本は亜熱帯地域です。


ツタの館 (C)Funky Goods

このツタもすさまじい。


これが在りし日の府中基地の姿だそう。庭に噴水もあったらしい。


建物内部

小さな敷地の中にさまざまな種類の建物がありました。住宅、工場にオフィスなどもあり、書類や資料が散乱している部屋もありました。建物はなぜか調布より傷みが激しく、部分的に床が抜けて危ない箇所も。 

秘密の花園 (C)サカタ1989年

春夏にはこうした草木が実に色鮮やかで美しく、さまざまな花が誰にも知られず咲き誇る秘密の花園となっていました。府中基地に行く前にはいつも食料を仕込み、誰にも知られぬ草木の中で警備車を止め昼食を摂るのを楽しみにしていました。


双子のパラボラ (C)Funky Goods

そしてこのパラボラ。キノコ隊長に案内されて初めてこの場所に来、上記のバードハウスやこのあらぬ方向を向いて立っている巨大パラボラを見たときには、大きな衝撃を受けました。すごい。なんだこれは。近隣民家からわずか数百mの場所に建っている、異様なしろもの。



パラボラの謎 (C)Funky Goods

このパラボラは使用はされていなかったようです。右の電波塔はまだ米軍により使用され、警備員も立ち入れないようになっていました。しかしこの、誰しもがショックを受けるだろう皿の大きさよ。 


府中基地の在りし日の写真にはあの高い電波塔が写っていない。より高性能な電波塔が立って、パラボラが用済みとなったのだろうか。



入り口ゲート付近にあった守衛ボックス、工場内の謎の溝に座る1989年の筆者

居住区ゆえ残されたものが集合住宅だけだった関東村よりも、このように建造物もバラエティに富み雑然とした府中の方が、廃墟としてはずっと面白いものでした。

構内をこうして一通り案内した後キノコ隊長は、初めてこれらを目にして興奮したサカタ隊員を満足げに眺め、南西の森の中にある邸宅群の前に連れて行きました。高級将校用らしきそれらの邸宅は、今私がカナダに住んでいてもあまりお目にかからないような、ガラスのサンルームに暖炉が作りつけてあったりするレトロな豪邸でした。美しい。そして隊長は言うのです。

「このあたりにはオオイチョウタケっていう最高級キノコが出たことがあるから、決して見逃さないよう........あ! あった!」。オオイチョウタケそのものの群生が、そのときそこにあったのでした。ハハハ!



それから2年余が経ち、調布と府中基地の段階的取り壊しが決まり解体が始まった93年冬、ある日の巡回であの邸宅群が一気に解体され消滅したのを見たときには、実にはなはだしくガックリきました。なんてことだ。あんなに美しかったのに。キノコの森も、ブルドーザに踏みにじられてしまったよ。







これは作者不詳のアーティストが、府中基地にどれほどの日数か侵入し続け、廃品をペンキで固めコツコツと作り上げたと思われる芸術作品です。私が府中に入ったときにはすでに完成し、その後手が加えられる様子はありませんでした。

この写真があったサイトは消滅して ikkou.info というサイト作者様の連絡先も分からないのですが、撮影日付は 2005-02-11 らしい。するとアトリエになっていたこの建物は、現在もまだ府中に残っているということになります。するとあのレトロ邸たちは壊されたけれど、そこからバードハウスに向かった地点にあるこれらの建造物は94年以降も、意外にも解体されてないのだろうか。今は誰が警備をやっているのだろう。やはり若く金のないバンド野郎とかなんだろうか.....と、いろいろなことに思いを巡らせてくれる1枚の写真です。

【2016年追記】

 

あのオオイチョウタケを見つけた夕方撮った写真を、日本帰国時に実家に残した古いアルバムから見つけました。そしてうれしそうにキノコを見せる私が座っていたバードハウス内の椅子が、20余年後もそのままあそこにある(!)ということを、ネットで見つけたこの写真で知りました。本当に時が止まった場所だ。

(追記2021)



府中基地は取り壊しが最終段階に入っているとのこと。府中基地のベストな写真アーカイブはおそらく、在日フランス人廃墟写真家の↑ジョーディ・ミューさんの「Fuchu Abandoned US Air Force Base (2012)」でしょう。すごい写真を楽しめます。私が音楽クリップを作ったとき、彼から府中基地の写真をいくつか借りることができました。おすすめ。


これもすごい。↑シェーン·トムズさん「Fuchu Military Base」。上記の「ペンキの芸術作品」だ。あのあと屋根が抜けてこうなったんだ!

2005/11/26

追憶の調布関東村(2)関東村のシクスティーズ

2005/11/26 by サカタ@カナダ

(2)関東村のシクスティーズ(1965-1973)

「関東村」Google 巡りをさらに続けていくと、驚いたことに60~70年代に調布基地関東村で高校時代を過ごした人々が30年以上経った現在も校友会 (Chofu.org) を運営し、米国本土で同窓会を続けていることが判明。多くの会員が熱烈に往時を懐かしがっており、Chofu という文字と校章の入ったピンバッジやパーカまで販売しちゃってるのです。

高校大学の同窓会など音沙汰ないわが身を思うと信じがたいほどの熱意なわけですが、この Chofu.org のアルバムエリアに置かれたチアリーダーとかバンドとか卒業パーティの写真を眺めるにつけ、うーんすごいなーと嘆息します。立川基地が全盛期は完全にアメリカであったという話はよく聞きますが、関東村内部も幻のアメリカだったのですねえ。

もう1つの「Dragon's Roar」はどういう人が作っているのか分からないのですが、昔の日本の写真をコレクトしているサイトのようです。




【調布ハイスクール】

チアリーダーとシクスティーズバンド (C)Chofu.org

これが調布とは。いわれないと絶対に分からない(笑)。

  
 プロム(卒業舞踏会) (C)Chofu.org 

こんなところまでも完全にアメリカ式でしたのね。なんか、たとえ世界の僻地に赴任していても、子供らに非アメリカ的な思いはさせたくないといった、親たちの思いがあったのじゃないかと想像させられます。



卒業アルバム (C)Chofu.org
卒業アルバムは日米同じようなものでした。Chofu.org では5年分のアルバムをスキャンして掲載しています。そういうところが本当に熱い校友会です。

◇   ◇   ◇   ◇  

【関東村の暮らし】 



関東村リビングルーム  (C)Dragon's Roar
  質素で快適そうな往時の関東村住居風景。廃墟化しても間取りは同じでしたが、返還後こうした家具は一切残っていませんでした。



関東村売店  (C)Dragon's Roar

ここであのキャンベルの缶スープなどを購入していたのでしょうか。当時の住人によれば当時は1ドル 360 円だったので、子供の小遣い程度でも基地の外では豪勢な買い物ができてうれしかったそうです。


 関東村シアター (C)Dragon's Roar

立川基地黄金時代にスティービーワンダーが慰問でやってきたという伝説がありますが()、関東村のシアターは映画だけだったのでしょうか。 (11 Feb. 1968 Entertainers, Stevie Wonder and Martha and the Vandellas, part of Tami-Motown Festival, played at a sold-out concert today at the Tachikawa West gym.)




関東村プール  (C)Dragon's Roar
このプールは関東村が消えるその最後まで、このまま存在しました。余生はカエルの王国になっていました。




←Chofu.org には1965年頃の関東村全図が載っていますが(別窓で地図を全体表示)、実は私が管理していたのはこの地図の左上住宅部、左下の幼稚園・プール・小学校までに過ぎず、右下(南東部)にあったという中学、高校、教会、シアター、マーケット、コミュニティセンターその他の大型施設はすべて、日本に返還後いつの時点でかサラ地にされ残っていませんでした(79年の航空写真ではすでにサラ地になっていた)。

―――そうかこんなに大きな「町」だったのか。警備員当時は知らなかった事実がどんどん分かるインターネット時代。この町で上の写真のようなシーンをはじめ、さまざまに素晴らしい思い出があったんだろうなあ。実際この校友会の掲示板で、当時好きだった女の子の消息を尋ねる人とかたくさんいるし。



(かつての住民が旧施設名を付記した関東村の、上の地図とは反対の北から見た航空写真。滑走路は東京の離島へセスナが飛ぶ調布飛行場)



私が警備をしていた頃も、「昔ここに住んでいたのですが、中を見せてくれませんか」といって旧住民がときおり訪れました。たいてい70年代に小学生ほどだった年頃の方々でしたが、特例として入場を認め、地図左下に写っている幼稚園、小学校、上の写真のカエルプールといった、関東村最後の名残施設に案内しました。


小学校に隣接した関東村プール。大きなガマガエルたちの王国となっていた。(pic by 弟)

「グレード6(小6)のときはここのクラスで、このプールで泳いだんだよ! ここで友達とフェンスを破って脱走してさ!」

などと彼らは、押し寄せるノスタルジアにものすごく興奮していたのです。

後から廃墟遺跡として見れば、住宅棟しかなかった関東村よりも軍事施設だった近くの府中基地跡の方がずっとエキサイティングだったのですが、人々の青春と思い出は関東村にあったのだということを、この写真たちは語っています。こうして失われた旧職場の姿を発見して興奮している自分も、寄せる思いの熱さは同じなのです。 

2005/11/25

追憶の調布関東村(1)関東村警備の日々

(1)関東村警備の日々(1990-1994)
(2021/04/22)全5記事に写真追加と加筆

わたくしサカタは 1994 年にカナダに来るまで、旧米軍家族居住区だった「調布基地関東村跡(東京都府中市)」という広大な住宅廃墟群の住み込み警備員を3年余やっていたのですが、こないだ久しぶりにその頃の夢を見て目を覚ましました。

タクラマ館「関東村跡地 (1993)」
懐かしさに朝イチで「関東村」と検索してみると、えらいページを発見。私が警備をやめる前年に不法侵入を発見し捕まえ退出いただいた、まさにそのカメラマン氏のページがいきなりトップで出てきたのです。←こちらがそのサイト、「タクラマ館」該当記事はその後消滅)。文中「犬を連れて巡回していた警備員に見とがめられ」というのがこの私。犬とは忠実なる警備犬ビコ号のことであります。いやはや、長い時を隔ててなんという偶然なのか。

彼のページには、捕まった時点までに彼が撮影した美麗な写真の数々がありました。懐かしすぎる10数年前の我が職場、今はもうないこの村。写真の腕前も素晴らしい。あのとき捕まえず、もっといろんな施設を撮っておいてもらえばよかった。

さっそくタクラマ館主に連絡してこのすごい偶然を伝え、いくつかの写真の利用許可をいただきました。館主も、10年&太平洋を隔てたこの再会にびっくりだそうです。ありがとうございます、タクラマ館館主様。






センター道路 (旧称 Fuchu Avenue)


この南北1kmのセンター道路が貫くゴーストタウンを、隊員と警備犬ビコ号は日夜巡回し、侵入をもくろむタクラマ館主ら廃墟愛好者たち、廃墟の危険を知らぬ近所の子供ら、あるいは勝手に犬を放し「ドッグラン」として使うジジババ(別記事「恐怖のボクサー犬」参照)らと戦っていたのです。まあ夜は暗黒の恐ろしいところなので人が来ることは一度もありませんでしたが。

東の荒れ地と調布飛行場(pic by 弟)

月の夜の巡回時などは東に広がる荒れ地と巨大な柳と月のコントラストがあまりにも物凄く、ビコ号と共にいつまでも呆然と空を眺めたりしていました。ケイトブッシュの「Wuthering Heights(嵐が丘)」が、頭の中でガンガンと鳴っていました。



屋上ガーデン

ツタに侵食されたこうした建物が、当時でも100棟近く残されていました。この建物は私が初めてこの場所に入ったときに、後述する「キノコの隊長」が案内してくれた棟かもしれません。『屋上ガーデン』と呼ばれた緑に侵食されたこのテラスで、私らは2人弁当を食べたのです。「信じられないよ。本当に俺がこんなすごいところで働くなんて」と、私は声を震わせて。




ボイラー工場 (Boiler Plant)

これは関東村に当時残された中で最大の施設、ボイラー工場。中は巨大なボイラーと配管だらけです。左手にこんもりと見えるブッシュ下に隠された貯水槽とこのボイラーが、関東村全域にお湯を給湯していたと思われます。

この写真は調布の冬の空の色までも見事に写し撮っていて、この日この場所にいた私はこの1枚に、激しく胸を動かされます。


消防署から

もう一つの大型施設消防署跡の2階から南東を望んだ図。武蔵野の冬の森。家々の間はすべてこうしたブッシュと雑木と落ち葉に埋め尽くされ、キジやウサギが生息していました。消防署跡は残念ながら、ハシゴ以外何も残らぬがらんどうのビルディングでした。


住宅内部と警備事務所

建物内部はこの通り、惨憺たるありさま。同様に米軍基地跡である立川基地(後述)はまだ使える古い建物が残っていたため、その屋内に警備事務所が設置されていたのですが、関東村は全建造物がこのように窓もなく風雨に耐えられない状態だったので、プレファブ事務所設置となりました。電気と電話だけが通じ、水道は敷地内にないため、隊員が各自家からタンクで水を持ち込みました。冬はとてつもなく寒く、夏は恐ろしく暑いその事務所に、警備犬ビコと警備隊員2名は交替で寝泊まりしていたのです。冬はよく風邪をひいたなあ。


朝日町通り側フェンス

このフェンスを乗り越え、あるいはペンチで穴を開けて廃墟マニアたちが忍び込み、警備隊員は彼らを捕らえてはフェンスを修復していました。この写真も、この中で3年間暮らした私にはたまらないアングルで捉えられています。道路を挟んで右側にパン屋があり、そこの鳥そぼろサンドイッチが私の常食でした。

現在はこの関東村跡地に、東京外国語大学と警察大学が建てられているのだそうです(味の素スタジアムは、当時誰も入れない草ぼうぼうの荒れ地だった飛び地に建立)。建物の解体は、この93年から本格化していました。 



美しい外壁が残っていた幼稚園(pic by 弟)
幼稚園の中庭

こうした基地跡警備の仕事は、多摩では知られた野外活動型ブルースシンガーだったキノコの隊長という人物が、天の配材というものか80年代に草深い立川基地跡警備の仕事についたことから、当方にも縁が生まれました。旧基地関連施設で警備仕事の空きができるごとに、彼が貧窮する多摩のバンド野郎たちを警備会社に紹介してくれたのです(※我々下っ端警備員は、警備会社での研修と教育実習の後に現場配備された)。

1990 年に調布関東村に警備事務所が新設されることが決まった時点で声がかかり、私は宝くじに当たったような幸運な思いでこの仕事を得たのでした。東京にいながら森の中で働けるなんて。なんてことだ。すごいぜ。

当時残っていた建造物は幼稚園、小学校、プール、消防署、そして巨大なボイラー工場。残存する住居棟は20~30棟ほどだったかと思います。


構内は1970年代から手つかずの自然が残り、
キノコがたくさん出る森だった
住み込み警備は24時間勤務で翌日パートナーと交替というローテでしたが、巡回パトロールとフェンスの修繕とレポート書きさえしっかりやれば自由になる時間も大量にあり(施設内に常駐すること自体が不測の事態に備えた仕事となる)、私は事務所にギターやら本やらキャンプ調理器具やらを持ち込んで、仕事と野営が渾然一体となった生活を追求していました。


気立ての良い警備犬ビコ号

当時私が打ち込んでいたのは英語学習とネットでのコミュニケーション(当時は当然インターネットはなく Nifty-Serve)で、さまざまな英語教材を警備事務所に持ち込み、犬以外誰もいないのをいいことに大声で発音練習を重ね、独学でけっこう英語が話せるようになりました。初めて現配偶者に会ったときに話ができたのも、現在カナダに住み翻訳をやっていられるのも、この基地に流れていた悠久のときの流れのおかげなのです。


資料によると、関東村は65年に作られ、73年に日本に返還されたとのこと。つまりこれらの建物はわずか10年も使われず、その後20年間は放置されていたことになります。が戦後の日本は米軍住宅群を作って住宅技術開発につなげたのだというし、サカタ隊員たち貧乏なバンド青年も廃墟警備仕事のおかげで食いつなぎ未来につなげられたわけで、まったくの無駄ではなかったのですね。



(2016年:掲載サイト移行と写真の追加)
(2021/04/22)90年代に弟が撮った、お前こんないい写真あるならもっと前にくれよという旧米軍基地跡の写真が送られてきて全ページに追加加筆。