2010/07/17

日記「老猫ティガーの行方」

「『アバター』の古さ」「どうして猫はいなくなるのか」ほか。

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■10/07/11(日) □ 老猫ティガーの行方
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 萌のパーティ後迎えに来てくれたペアレンツたちと話していて、前庭に大量のティガーの毛が散乱しているのをMが発見する。ああ。これはいかん......。実家である隣家に行って尋ねるとやはり帰っていないとのこと。コヨーテにやられた可能性が高いなと隣家のMTが言う。

 襲ってきたのがアライグマならば、ティガーが逃げながらも盛大に威嚇大声を上げるので俺が必ず気づくし、実際毎年数回襲われて怪我に至ったこともないのだが、コヨーテほど体格差があると声も出せないうちに事態が決してしまうのだろうか。なんてことだ。Mも俺も泣きそうになる。萌にはとてもこのことは知らせられない。彼女に見つからないうちに毛を片付ける。

 最近本当に年を取り階段がきつかったようで、この夏ティガーは定位置であるうちの2階デッキで寝ていなかった。夜もああして身を守るものがない下の草むらで寝ていて、それで災難に遭ったのかもしれない。なんてことだ。

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 WCの決勝が終わるとテントを乾して畳み、なにかティガーの手がかりがないかと自転車に乗って町内を回ってみる。もちろん何も見つからない。まあ何かが見つかったらそれはおそらく最悪な事態なわけだが、怪我をして動けずじっと路地裏でうずくまっているところを発見みたいな都合のいいことになっていてはくれまいかと必死に祈る。自分でも驚くほど動揺している。皆がティガーを心から愛していたのだ。


 窓から何度も、デッキに出て何度も、裏庭に回って何度もティガーの姿を探し、小さな声で呼んでみる。帰ってきてくれ。俺たちが外に出るたび、どんなときでも擦り寄ってきたティガーともう会えなくなるなんて、ほんとに信じられない。おととい暑い日に、うちの前でアスファルトにへたり込むあいつの写真を撮ったばかりだった。俺は打ちのめされている。普段ティガーとは遊ばないMも意外なほど落ち込んでいる。萌になんと話したらいいのかもわからない。

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■10/07/12(月) □「アバター」の古さ
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 風の強い日。庭で片付けをしていると、風の音がにゃあと聞こえて振り向いてしまう。隣家のALにも、萌にはこちらから機を見て話すので、当面何も言わないでほしいと伝えておく。萌がどれほどティガーをかわいがっていたかALも当然分かっており、「I know, of course」と思いやってくれていた。

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 夕方、Mが昨日のパーティ用に借りてきた「アバター」を見る。「こういう原住民をアメリカンヒーローが率いて悪と戦うって映画は、俺はもう何度見たかわからんよ。いくらなんでも今時どうなの?」とMにこぼすと彼女はそれはそうだけどと笑い、これは映像を楽しむものなのよという。しかし原住民の生活様態や儀式もあまりにも類型的な「白人が見た原住民社会」だし、英語を喋れる美しい酋長の娘っつーのからしてインディアン映画の昔から定番だよな。

 まあ水を泳ぐ映像なんかははっとするほどきれいだが、森はファイナルファンタジーその他の3Dゲームでゲーマーがすでに楽しんでいた仮想風景をハリウッドの金と人材で拡張したものだし、森との心の交信はナウシカの腐海+オームだし、飛行シーンも同ナウシカ、浮島はラピュタ、動物と共に戦うのはもののけ姫、飛行機に飛び乗り墜落させるのはコナンからの借用である。つまりインディアン映画+宮崎アニメですべてができていると言え(※)、何も新しいものはない。加えて動物や飛行機メカのデザインには、宮崎駿のような天才性が何も感じられない。デザイン学生が描いたたみたいなつまらないモンスターばかりが出てくる。
(※)「J・キャメロン監督、実は宮崎駿ファンだった!」という記事もやはりあった。

 3Dメガネをかけてみれば飛行シーンなど気持ちいいのだろうが、それは遊園地の乗り物の楽しさであって映像美ではない。これが映画表現の革新みたいに言われるところがまことにハリウッド過大評価世界である。俺は手描きアニメの緻密に描き込まれた絵を見ると絵が上手な人の才能を味わう喜びを強く感じるが、こういうCG映画を見ても Playstation 2 以上の感慨は湧いてこない。技術の発展で美しさではなくデータ量だけが増していく。「3Dゲームのすごいやつ」としか感じられないのである。


典型的北米アニメ:Phineas and Ferb
 最近はたまにしか読めないのでマンガでもこの、「絵を見る喜び」を痛感する。NHK「ゲゲゲの女房」にチラリと出てくる水木しげるの絵などにシビレるのだ。水木の描く線に反応できるようなマンガ素養がないアメリカカナダの作家がCG映像を作っても、いかんせんイメージの元となる「絵」が貧しいのだろう。なんせカナダじゃ一番人気の子供アニメが↑このレベルなんですから。喋りと歌は面白いが、この画力をなんといわんや........。

 ナウシカは戦争を止め、アシタカは止められず謝るのだが、この映画はべトナムとイラクでの米国の行為をあからさまに模し批判しながら、結局全面戦争へとすべてを駆り立てていく。これじゃ勝っても負けても多数の命と森が無茶苦茶ではないか。自国が戦場になったことがない国の人間には、その心地悪さがわからないのだろうか。

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■10/07/13(火) □ どうして猫はいなくなるのか
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 夕方、ついに萌にティガーのことを告げることになる。「あのさ、ティガーがさ、帰ってないんだって。もう3日」。これで萌はことを理解し、号泣してしまう。「何が起こったかわからないんだ」。「かなり年だったから、その時を悟って自分で身を隠したんだと思うわ」と、コヨーテの可能性は伏せMが話す。

 これは寝るまで止まらないだろうと思ったが、意外やしばらく号泣すると顔を上げ、「今頃ティガーはずっと入りたかったこの家の中に入れて、ああこういう家だったのかって思ってるかも。あ、天国で(日本で俺が昔飼っていた猫)チビちゃんと会ってるかも!」と涙をこぼしながら笑い出した。そうか。そうだね。子供は大人よりもはるかに立ち直りが早い。俺はもうティガーがいないんだといまだ一日中ため息をついているというのに。子供には取り返しの付かないことを嘆き繰り言を言うというような精神回路がないんだろうな。常に現在と未来を向いているのだろう。

 どうして猫は死ぬときにいなくなるのと聞かれると、俺にもMにもわからない。「体の異変や痛みに動転して、誰もいないところに身を隠し、やがてそのまま息絶える」という説に一番説得力を感じる。ティガーが怪我をしてどこかでじっとして、帰ってきてくれないかと俺はいつまでもいつまでも考えてしまう。「ティガーがもし帰ってきたら、私また泣いちゃうな」と萌はいう。まったくだ。その通りだよ。ティガー。

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