2012/02/28

日記「カナダの中二病」

『鈴と小鳥とそれから私、みんなちがってみんないい(金子みすゞ)』

「こういうゼルダだったらよかった」「俺史上最低の操作性なゼルダ」「Wii ゼルダ・旅のはじまり」
(ゲームのネタバレっぽい部分は白字になってます)

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■12/02/20(月) □ こういうゼルダだったらよかった
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Wii を買ったはいいがスポーツとアクションの2本だけじゃすぐに飽きるので、中古ゲームソフトを探しに行く。カナダは元々中古ゲームの流通量が日本よりはるかに少ない上に、PS3/Xbox に比べ Wii の品揃えはどこもまったく悪い。中古屋にゲームを流すのはゲーマーで、ゲーマーは Wii より PS3/Xbox 派なんだろう。

中古はこれといったものがなかったが、『ゼルダ・トワイライトプリンセス』が新品 20 ドルで売っていた。安い。家に帰り調べると当然絶賛の大ベストセラーだが、ビデオを見るとグラフィックが PS3/Xbox の1世代前、すなわち PS2/N64 という感じで食指が動かない(元々 GC のゲームだったとのこと)。Zelda 最新作でもグラフィックは大差ないようだ。Wii で素晴らしい風景や街を楽しめる RPG ってないのかな。―――あ、このゼルダは Wii リモコンを振ると敵を斬れるんだ。これは DS ゼルダのペン斬り同様気持ちよさそう。やってみたくなってきた。20 ドルでグラフィックを除けば現代最高レベルのアドベンチャーを体験できるんだもんなあ。よし。


なんとなく光量と物の輪郭感が足りないトアル村

萌もこの案に盛り上がったので決定し買ってきたのだが、序盤はすべてが土色のモノトーンの村におり、ビジュアルがパッとしない。物と物の境目(輪郭)がよくわからない 3D モデリングで、地形や建物の特徴が非常に把握しにくい。美しい田舎村の風景だというのはわかるが、美しい風景をあまり才のない画家が写生したという感じで、俺も萌もこれを特にきれいとは感じず、ただ黙々と情報を集めている。

リンクの容貌もなんというか、「トゥーン・リンク(DS 版ゼルダのマンガ的リンクが英語でこう呼ばれている)のほうがかわいいよね」と萌が言うとおりで、アメコミみたいである。要はどこを取っても俺が好きな絵じゃないということで、PS1 のグラフィック性能でも美しい・かわいいと感じられたドラクエ・FF のアニメ的な絵柄に対し、このゼルダは「シュレック」等のアメリカ CG アニメ的なんだよな。でこのアートワークで映画みたいな精細感や人物の魅力を出すには、Wii では解像度も足りないのだろう。RPG/アドベンチャーをやるのは美しい風景を見て「キレイ!」と感じたいからでもあるので、この単調なアートワークには、覚悟はしていたがやはり失望を感じる。

Ordon Village - Legend of Zelda: Twilight Princessすごい。ゴッホみたいなトアル村 :-)! (c) Mariokapapo

今検索して見つけたのだが、こういうトアル村だったらよかった(笑)。ファンが作ったコンピュータ画像モデルらしい。スゴイ。どうやって作ったのだろう。これは上記画面の2つの橋を反対側から見たところである。この写真を見てやっと地形が完璧に分かった(笑)。ここにいれば明るさに目が痛くなるかもしれないが、絵として素晴らしい。これくらい画期的な風景ならば、ここに行ってこの景色を見たいと思うじゃないですか。アドベンチャーマインドが掻き立てられるじゃないですか。そう思わせる絵を任天堂には作ってほしかった。そういうゼルダが見たかった。





この絵柄のしっくりこなさは覚悟していたから我慢するにせよ、この操作性の悪さはなんなのか。不満を挙げれば長大なリストになってしまうが、最大の問題は操作中この写真のようにリンクの向きが勝手に変えられてしまうことだ。これじゃ進行方向が見えないので操作しようがなく、そのたびにいちいち Z ボタンを押して視点を戻さなければならない。こんなことをする理由がサッパリわからない。ゲーム上のメリットもリアリティもまったくないのである。操作レバーの方向と見えている視界が常時食い違い、それを Z ボタンで修正して進んでいくしかないんだから、目隠しされ回転するスイカ割りみたいなものでありすぐに方向を見失う。

この視点撹乱と茫洋とした風景が合わさって、最初の小さな村ですら地形を把握できない。村中を延々と探索しているのに地形や家の位置がまったく頭に入らないのだ。村に家が何軒あるかもまだわからない。歩き回っているうちに「あ、この家はまだチェックしてないわ」と気がつく感じ。俺がこれまでやった 3D アドベンチャーで一番視界と操作性が悪いわこれは。

そんなわけでどうにも盛り上がりようがなく、俺も萌も最初のセーブポイントで「ふむ」といってやめてしまった。まだ旅が始まらない。

まあこの洋ゲー風の絵は Youtube で見ていて、それでもゲームが面白ければ我慢できると思って買ったわけだから、この序盤を乗り越え冒険の旅が始まったら盛り上がることを期待しよう。

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■12/02/23(木) □ 俺史上最低の操作性なゼルダ
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【ゼルダ・最初の敵がいる森終了】ランタンを持ちオイルの残量を気にしつつ洞窟を抜け、楽しくなってきた。挫折への分かれ道、峠は越えたなと思う。時間が許せば延々と冒険していたい気持ちになっている。絵、キャラ、操作性とどこを取っても好みではない。しかし面白い。今頃になってレビューを読むと、『トワイライトプリンセス』は英語圏では各所で FF12 を抑え 2006 年度ゲームオブザイヤーを取っている。ゲームのボリュームもすごいらしい。この先いろいろと期待できるんだろう。

しかし操作性は本当に心底悪い。道具や武器の非直感的な操作法をいちいち覚えなければならない。道具は選択して使う、武器は「ボタンでジャンプし振って斬る」でいいではないか。なんでボタンをいくつも押させるんだよ。Wii なのに。複雑な操作体系ゆえにコマンド暴発しまくりで、刀を出そうとして釣り竿を出したり、針に蜂の子をつけたり、あげくはその蜂の子をグビグビと飲んでしまったりしている。アタマが痛いよ。

ゼルダというシリーズは DS でもペン操作以外は一切許可しないという不便な仕様にするなど、こうして操作系にいつも独善的なクセがある。ダンジョン内でセーブしてもロードするとダンジョンの外から始まるという、ゲーム的になんの理由もつけられない理不尽さも固持されている。ユーザーには何のメリットもなく、いまどき他のゲームメーカーは絶対入れない不便を任天堂ゼルダ節ですと押し付けてくる。任天堂でもこんな遊びにくいゲームはゼルダだけだと思う。

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敵が出てくるとリンクの体の向きをプレイヤーがコントロールできないのはますます大きなハンデで、こんな馬鹿システムを作った任天堂を呪いながらの戦いとなる。なにしろ敵を常時見ながら戦えないのだ。戦闘中敵が視界からはずれたら、ぐるーりと回って敵がいるであろう方向にリンクの体を向かせ、Z ボタンで視界を修正してやっと敵が見え攻撃を再開できる(※)。やったことがない人はこんな馬鹿操作体系だとは信じられないだろう。

(※)ゲーム開始1週間目にして、『レバー下チョン押しで真後ろを向き Z を押す』という複合技で後ろを向けると発見(説明書には書いてない)。瞬時にナチュラルにはできないが、練習してできるようになれば移動と戦いがかなり楽になりそう。

敵がそばにいるのにそんな冷静に操作などしてられないので、結局パニック状態でただグリグリとすべてのレバーとボタンを押しまくる。するとダメ押しとして A ボタン単独押しで刀を収納してしまい(※)、気づかずに素手をブンブンして「なぜだ! なぜ斬れないんだ!」とアワを食うことになっている。コントじゃないんだから。

(※)キャラの状態と他ボタンのオンオフによってやることが変わるというのはなんの機械であっても最悪の操作系だろう。「ボタンを押しながらペダルを踏むと加速で、ペダル単独ではブレーキ」という車がもしあったらどうなるかってな話である。

敵を視界に捕捉しにくいことの救済措置として Z ボタンで敵補足+斬りなんてコマンドがあるんだろうが、そんな人工的なアシスト操作は「Wii リモコンでナチュラルに斬れて気持ちいい」フィーリングに真っ向から反するではないか。矛盾もいいところである。Z のつもりで C を押しちゃうと視点固定&操作不能になるし、ボタンを離しても視点固定は解除されず、もう一度押さなければならない。4日もやって何一つ直感で思い通りに動かない。これほど不自由なゲームが他にあるだろうか。まったくイライラする。萌もイライラしている。

独特の操作性に当初苦しんだゲームといえば「トゥームレイダース」があったが、あれはララの見てる方向とプレイヤーの視界が異なり要修正なんて不合理なことはなかったし、視界操作もボタンをホールドして上方/左右をチェックし、離して即行動と快適でナチュラルだった。背後に敵がきたらボタン1つで瞬時に向きあえ存分に戦えた。このゼルダの操作系は慣れても快適にはならない。俺がこれまでやった 3D ゲームで最低の操作性である。現役ゲーム機の新品で買えるゲームでこんな操作性フラストレーションを感じるとは予想外であった。

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■12/02/24(金) □ カナダの中二病
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萌の部屋を掃除していたらまたメモが見つかった。今度は前のイノセントなものの逆で、「あなたが私の背後で悪口を言っていても気にしないわ。私は私だから、words can't bring me down」みたいなハードなもの。家族やリアルな友達に関することじゃないのはすぐにわかり、これは萌のイメージするロック歌詞だなと察しをつける。あれはホントのことじゃないでしょと一応あとで確認してみると、やはり彼女の作った歌詞だった。

これを見て思うのは、子供の中にはこうしてどこかで拾ってきた強い力を持ったクリシェ(陳腐な言葉)がたくさん入っているということだ。ポップソングというものはだいたい日本でもカナダでも、ほとんどクリシェでできあがっている。子供がそれを飲み込んでいくのは当たり前のことでいいも悪いもないが、子供らしさを嫌い、こうしたクリシェにアイデンティティを求め喋ったり書いたりするのが、日本で言うところの「中二病」だろう。萌は中1で日本の中2よりまだ2歳若いのだが、もうそうなっている。子供っぽさが軽視されるカナダの学校や TV 環境下では発動が早い。

休日放っておくと萌は、延々とコンピュータでストーリーをタイプする。いつも俺がそれを止めているのだが、それはこうしたクリシェを書き連ねてもライティングスタイルがこなれ国語の点がよくなるだけで、創造性においてあまり意味がないと思うからである。ストーリーをタイプするのはそれくらいで絵を描いてくれ、歌を歌ってくれ、ピアノを弾いてくれ、スポーツやゲームをやってくれと言っている。手で描く線は他人のクリシェなど入らない彼女のものだから。歌は真似が簡単なので気をつけないとクリシェになってしまうが、楽器で苦労して出す音はオリジナルだ。ゲームで楽しさや感動に震えるチャイルドライクな心も、みずみずしい個人のものである。鈴と小鳥とそれから私、みんなちがってみんないい(金子みすゞ)。そういう子供ライフを送ってほしいのだ。




ハチの巣みたいだ 東京
働きバチの行列だ
私はまだやわらかな幼虫
甘い甘い夢を見てる

夢が夢でなくなる東京
おいしそうな花のミツ
私はまだまだ世間知らず
甘い匂いに負けそう
(チャットモンチー「東京ハチミツオーケストラ」)

萌はこんな詩を書くようなティーンエイジャーになってほしいなと俺は願っている。カナダで育てば誰だってクリシェを積み重ねてアヴリル・ラヴィーンにはなれる。しかし「何と言われようと私は私」よりも「みんなちがってみんないい」のほうが美しいではないか。萌は日本人でもあるのだから、こんな謙虚さと開かれた目と抑えきれず広がっていく夢を持って大人に向かっていくことだってできるはず。君はまだやわらかな幼虫、甘い甘い夢を見てくれ。

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■12/02/25(土) □ Wii ゼルダ・旅のはじまり
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今日は一日萌と活動していた。午前中は Wii スポーツ。午後はMKベイビー訪問、ボードゲームストア&大福もち屋、バースデイプレゼント購入&中古ゲーム屋チェック、そして夜は萌がゼルダを再開したので一緒にやる。一緒に RPG をやるのは FF9 以来3年ぶりだ。「Huh! バカな敵」とつぶやくコメントはカナダ中二病的だが、怖い敵に震え飛び上がり「お父さんお願い!」とコントローラを渡してくる彼女の心持ちは昔と変わりない。ゲームはありがたい。

【ゼルダ・トワイライトプリンセス】村での仕事を終わり町に行くことになり《ネタバレ白字》ワクワク支度している朝、前触れもなくとんでもなく禍々しい敵が村を襲撃し、リンクは怒りに身を震わせ狼になってしまった。その状態で敵に捕らわれ、正体不明の子供を背に牢からの脱出中。俺 RPG 史上指折りの予想外な展開である。

DS ゼルダを2つ続けて中断したのはストーリーがなくダンジョン巡りの繰り返しで飽きたからで(ダンジョン内でセーブしてもまた外から始まるあの任天堂節も脚を引っ張った)、こうしてダークで濃いストーリーが入ってきたのにはいい意味で驚いた。
《白字終わり》これはいいぞ。土と木ではない無機物が画面に初めて表示されて、おお Wii グラフィックスもなかなかすごいなと思った。萌ともどもワクワクしてきました。いよいよ旅のはじまりである。

2012/02/23

日記「中身はいまでもイノセント」

「世界最高速のカーネーション」「糸子はサンプル展示品じゃない」「Wii がきたぞ」

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■12/02/13(日) □ 世界最高速のカーネーション
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ツイッターの「#カーネーション」タグ(番組関連発言を集めたもの)の記事を毎日読んでいる。実に面白い。みながシンプルな言葉でくっきりと鮮やかに、見たばかりの出来事について飽かず語っている。このドラマについて語られる、大衆の言葉までもがこんなに生き生きとして楽しいところが素晴らしい。緻密に彫り込まれた映像なので、初見で皆が気づかなかった仕掛けが発見報告され、それを確かめるために日本中の人がまた見るということが繰り返されている。

「僕ら凡人は自分に起きたことしか歌に書けない」と以前音楽について書いたが、凡庸なドラマも表現として同じ類のものだ。北米日本語TVで放送される(つまり日本でヒットした)民放ドラマは、凡人の想像力と理解力の範疇で「リアル」なものを作っている。それで面白いものももちろんあるけど、そういうものに対しては人々がこれほどの言葉を語れないと思う。よかった、面白かったのバリエーションしか言葉は出てこないだろう。そうした言葉が並んでも、わざわざツイートを検索して読む気はしない。

それに対し「カーネーション」は、小篠一家という非現実的なまでに非凡な家族を叩き台に、さらにそれを超えていくぜという脚本家とスタッフと役者のものすごいアイデアとエネルギーが注ぎ込まれている(バンドの話みたいだな、いい歌が天才的アレンジと演奏でモンスター級名曲になるからロックは奇跡だ的な)。そんな凡人の想像を超えた小原家の一角に、視聴者は毎日居ることができるのだ。大衆に与えられてしかるべき、『大衆的だけど凡庸ではないもの』を「カーネーション」制作陣が見つけ、精緻極まりない創り込みで届けてくれるおかげで、日本国民はスカーレット小原な人生を毎日共有できるのである。見る側の気持ちは当然自らの日常の振幅を超えて震え共振し、言葉を発せずにいられない。かくしてツイッターのカーネーションタグが大盛況になるわけである。

しかも皆子供の頃から知る大衆的極まりない糸子の話なので、誰もが身内のごとく気兼ねなく言葉を投げかけられる。糸子それはダメやで、おばあちゃんに怒られるで、とか言える。それが映画とは違い長い時間をかけて一代記を追う、こうした長いドラマの力なんだなと実感する半年間だった。もうじき終わってしまうんだよなあ。

「演じていて自己ベストどころではなく世界最高速を出しているとしばしば感じる」と尾野真千子さんが言ったそうである。その通りだろう。日本のTV史に残る名作である。

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■12/02/14(月) □ 中身はいまでもイノセント
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妻Mにバレンタインの花を買うとえらい喜んでくれた。現在反抗期まっただ中の萌11歳は俺の花買いには付き合ってくれたが、それ以外俺とは口を聞かず。

ここんとこ萌が俺と全然話してくれんとMに言うと、関係改善をすればいいじゃないのと軽く言う。たとえばバドミントンの件は「お父さんがクリティカル(批判的)だからなにも話したくないのだ」と萌がMに言ったとのこと。なにごとにつけそういうことじゃないのとアドバイスしてくれた。

バドミントンの件というのは、萌を子供扱いし技術面でアドバイスせずただ遊ばせているバドミントンコーチに俺が腹を立て苦情を言いたいと主張し、萌があれで楽しいんだからやめてくれと言ってる件である。うーん、そうか。かように俺は愚かさに対してセンシティブすぎ寛容さに欠けるので、俺のクリティシズム(批判精神)が萌の生活全体へのクリティシズム(批判)になってるということか。薄々気づいてはいたが、わかってきた。

「子供は考えが足りないから、自分で物事を正しく判断できるようになるまでは言うことを聞け」というのが親の言い分なのだが、正しくできなくてもいい、放っておいてくれというのがつまり、反抗期というものなんだろう。つまり風邪をひくから厚着しろと叱るのをやめ、風邪をひく自由を認めてやらないと生活が回らないということである。スポーツだって俺のアドバイスに従えばうまくなるわけだが、うまくならなくてもいいから楽しくやるという自由を萌は求めているわけである。こんなすれ違いに解決法はもちろんないが、反抗の構造だけは見えてきた。

ちょうど今日「カーネーション」で、「若い子のやることは、自分にわからんからちうて間違ってるとは限らん。外国語みたいなもんや」と糸子が言っていたが、これを俺も心得ておかねばならない。俺が萌に言ってることは正しい。しかし萌の気持ちが間違ってるとも言い切れないのである。お互い外国語みたいなもんや。

よし、今日萌に謝ろう。なんでもかんでも批判して悪かったと。萌がやってることはオロカでそこら中間違ってると実際思うが、これからは叱責という感情を交えず、ただ萌がすべきことを命じよう。でやらなければただやれといおう。できるだけものごとをシンプルにしよう。そんな単純に行くわけないのだが、方針を立てればお互いにもう少しは楽になるだろう。



といったん仮の結論を出して萌の部屋を掃除していたら、トイレットペーパーに書いた「なぜSRの誕生パーティに行きたいか」という3枚にもおよぶ箇条書きリストが見つかった。風邪をひいていたし前後に別のパーティが入っていたのでやめとけと俺が言ってもめたパーティである。

あちゃーこれは俺に対する怒りや批判が書いてあるなと思って読むと、「よく寝た」「宿題はやった」「暖かくする」「鼻水が出てるだけでシックじゃない」と、まったく内容に感情的な色がついてない。俺を説得するためにトイレに篭りこんなに真剣に考え、それで結局パーティ行きを勝ち取ったのか。

これを読んでジーンとしてしまった。やっぱ萌は、いまでも中身はこんなにイノセントなんだな。《中身はまだ子供で全然考え足らずのくせに人の言うことを聞かない》と俺はげんなりしてるのだが、《人の言うことは聞かないが中身はいまでもイノセント》と逆に捉えていくべきなんだろう。

で、萌をピックアップ時に今日俺が考えたことを伝え、「あのメモには感動したよ。私は間違ったことは言ってないと今でも思うが、言われること自体が嫌なのだとよくわかった。これからも言うとは思うが、言い方には気をつける」と謝ると、萌の機嫌は明らかによくなった。これで当座気分がよくなっても生活は同じなわけで、関係性が劇的によくなることはないだろうが、なるべくケンカはせずにやっていこう。

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■12/02/17(金) □ 糸子はサンプル展示品じゃない
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MKの奥さん無事出産。めでたし。萌を連れてベイビーを見に病院へ行く。ベイビーはお母さんよりも朝青龍に似ている。マイクロサイズの朝青龍という感じ(笑)。MKは遠慮する萌に無理にベイビーを抱っこさせるなど、すでに親バカ Proud Dad そのものであった。あいつはうちに住んでた9年間萌にさえ親バカ的に奉仕してたので、自分の子だとどうやって甘やかそうかというロードマップがもう、ずーんと地平線まで伸びている模様。

萌は病院への道中も例によってむっつりと口を聞かなかったのだが(結局俺の批判癖など関係なく、機嫌が悪いのがプリティーン女子のデフォルトなのである)、ベイビーを見て気分が晴れ晴れとしゴキゲンになった。萌もこの病院で生まれたんだよ、どの部屋かは覚えてないけど、あのフロアや喫煙所はよーく覚えてるよと萌に話す。「そうか、お父さんタバコ吸ってたもんね! 隠してたけど知ってたよ!」と久々に会話が弾むのであった。

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【カーネーション】聡子が「(お母ちゃんが見てくれなくて)さびしいから」とテニスをやめ、洋裁への道に大きく舵を切る。これまた楽しくなりそうだが、しかし糸子のあの精気のなさ、無関心さの露骨な強調はなんなのか。「老いが重要なテーマ」だと制作はいうけれど、糸子はそんな老いのサンプル展示品じゃないんだからさ。昼間起きてられないほど精気をなくし、裁縫以外の外界に一切の興味をなくすなんて、ありえんよ。

おかあちゃんだって神戸のおばあちゃんだって年をとってもスローダウンしていくだけで何も変わっていないのに。そしてハルばあちゃんのあの美しい老いぼれっぷりを見せてくれたドラマなのに。糸子だけが「老い」テーマ=感性鈍麻のマネキン展示みたいに使われ、不愉快なのである。このドラマを熱愛してきて初めて、こんな糸子は見ていたくないと思ったな。尾野真千子さんは当然あと2週、渾身の芝居で素晴らしい後味を残してくれるだろうが、彼女の残り少ない時間を聡子を覚醒させるためのこんなアリバイ芝居に費やされたくはなかった。

なんでこれに腹が立つのかというと、糸子=尾野真千子が培ってきた魅力よりも、テーマである「老い」を表現することのほうが大事なのだろうかと疑問を感じるのである。主役交代に対しても同じことを思う。糸子の全生涯を描くことに、尾野真千子を交代させるだけの意義があるんだろうか。それは最後まで見てみないとわからないのだけれど。

何事もパーフェクトというものは手に入らないものだ。音楽においてもそうであるし、朝ドラなんて半年にも渡る進行形の制作物なんだから、停滞や違和感が所々に現れることは致し方ない。隅々まで完璧を求めるなら単発の映画しかないわけだが、しかし長いドラマには映画には得られない一体感があるのだと、つくづく思い知った我らカーネーション・ラバーなのである。

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■12/02/19(日) □ Wii がきたぞ
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TV と PC を見過ぎだとついに制限がかかり、することがなくなった萌が退屈し廊下を往復している。これを見かねたかねたMが、Wii の中古でも買えと命じてきた。先月加入したネット映画サービスを TV で見れるし、あんたたちはゲームでも一緒にやればいいじゃないの。それもそうだな。それしかないなとさっそく中古を探す。

遊べるゲームのクオリティとしては画質の桁が違う PS3 と Xbox に惹かれていたのだが、俺が TV 前に陣取って長時間 RPG をやるなんてことは今後起こりえないので、萌と Wii スポーツがやれればそれでよし。

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で早くも Wii が来たぞ。ついてたゲームは「Wii スポーツ」と萌がほしがっていた「スマッシュブラザーズ」。これはやってみたら単純な格闘ものであった。30 年前のファミコンレベルのゲームだ。なんでこんなものが大ヒットしたのか。Wii なのにコントローラを振らないし。まあフリーだからいいが。

映画サービスも問題なくインストールでき快適に見れる。インターネットもちゃんとつながり、Youtube が見れる。前に借りたときはどうせ借り物といじりもしなかったので知らなかったのだが、Wii はすごいマシンである。つまりあれをベースメントのTVに繋げておけば、萌は友だちを呼んでゲーム、映画、Youtube と遊びまくれるのだ。最高ではないか。

実際久々に萌と長時間遊んだわ。うっすら汗をかくところまでテニスを何セットもプレイした。やっぱあのコントローラをスイングすること自体が楽しいという根源的な快感が Wii にはある。萌もバドミントン効果か、昔よりうまくなっている。これで正解だ。俺用にサッカーか RPG をもう1本、萌と友達用にパーティものをもう1本という感じで手頃なソフトを探そう。



2012/02/12

日記「カナダのTVを見ない俺」

「ニューヨークで歌謡曲なら」「『カーネーション』を語ること」

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■12/02/02(木) □ ニューヨークで歌謡曲なら
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【SONGS「由紀さおり in ニューヨーク」】日本のバーブラ・ストライザンドと紹介されていた。そうかなあ(笑)。まあいいけど。「マシュケナダ」「PUFF」と洋楽の日本語カバーが続き今ひとつ面白くないなと思っていると、ドドンパ・ドン。ドドンパ・ドンというイントロで「ブルーライトヨコハマ」。これはよかった。これって和風ラテンソングだったのね。

洋楽カバーなどやらず、こういうのばかりで「日本歌謡曲名曲スーパーパック」みたいに歌いまくってほしかったな。美空ひばりとかやったらアメリカの聴衆は、すげえヘンなメロディだ! と心地よいショックを受けただろう。日本にだってもうないメロディなんだから。しかし美空ひばりは由紀さんの声に合わないか。ならば「日本のバーブラストライザンド・由紀さおりサン!」と紹介されたら天童よしみが出て行って美空ひばりを歌えばよかったのだ。たぶんバレなかっただろう。顔は似てる。


そうだ、こういうのをニューヨークでやってほしかったな、由紀さん。「胸の振り子(サトウハチロー・服部良一・昭和 22 年)歌:Ann Sally」。桑田佳祐が昔歌ったのを聴いて、なんちういい歌だとびっくりしたのです。こういう歌を発掘して紹介してくれるといいんだけど。

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■12/02/06(月) □ カナダのTVを見ない俺
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萌はここ1年ほどで、カナダの子供向けTVに加えMが見る大人TV番組にもガッチリとはまってしまい、こうなると俺とゲームをしたり音楽をやったりする時間がまったくなくなってしまう。冬は雨ばかりでスポーツも一緒にやれんし、一緒にやることは「桜蘭高校ホスト部」を見るだけだ。昔は TV Japan でローティーン向け番組もたまにやっていたのだが、もうまったくないしな。「ルーキーズ」などの血だらけ熱血を見せても意味ないし。萌に「カーネーション」を見せてやりたいなあと思っては、無理だよなとあきらめている。

 Mも萌もすごい長時間TVを集中して見ているが、俺が「なになに?」と身を乗り出しTVを眺めてしまうような高笑いや嘆声はさほど漏れ出てこない。笑いだけならば萌も、「桜蘭高校ホスト部」を見てる時のほうがずっと大声で笑うと思う。2人に「カーネーション」を見せてやれたらなあと口惜しい。「カーネーション」は明らかにドラマというか映像表現の最高峰で、これほどのものが週6回放送されるなんて世界でも類がないだろう。

 しかし延々と続くオフィスや家庭での会話で構成されたカナダのドラマに俺が興味を持てないように(本当に米加ドラマの連中はよく喋る。時間ごとのテキスト量は日本のドラマの4倍くらいあると思う)、日本的機微といわく言いがたい表情演技のみで構成された「カーネーション」を萌とMに楽しんでもらうのも、たとえ字幕があっても無理だろうなあ。

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まあ俺がメンタル的にカナダ人となりカナダのTVを見て談笑するほうが生活態度としては合理的なのではあるが、それはカナダ暮らしの初年度から数年で無理とわかってしまった。「フレンズ」「サードロック」「70's ショー」などあの頃Mと一緒に見た人気コメディは面白かったけれど、飽きた。「ノースオブ 60」などのシリアスドラマは、ユーモアがなさすぎて見ていられなかった。

あの頃「フレンズ」を数シーズン見ただけで、俺はもう一生分の米コメディのお笑いパターンを見終えたと思う。笑いが入ってくる角度が毎度同じなのだ。笑いがあさっての方向から入ってこなければ、腹を抱え涙を流すなんてエクスペリエンスにはならない。新たな面白さなど米コメディ番組には登場しないだろう。

日本の人でも、もともと米コメディやドラマが好きで英会話を習い移住したような人ならばそうしたものを飽きずに楽しめるのだろうが、俺はロックと英語自体が面白かったから勉強しただけで、カナダに来るまでそうした番組を見たこともなかったしな。


これぞ斜めから入ってくるお笑い動画
それらを見飽きた頃に折よく(?)俺はインターネットと NHK (TV Japan) が手に入ったわけで、それ以降時間を割きカナダTVを見るモチベーションが持てません。すんません。しかし笑いならばネットの5秒の猫動画の方が実際パワーがある。「猫と和解せよ」ページもすごかった。こういうのを見つけるたびに萌に見せて、共に大笑いしている。現状萌とはこうして、「桜蘭高校ホスト部」や猫動画で付き合っていくしかないよなあ。

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■12/02/08(水) □ 「カーネーション」を語ること
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『サリエリの独り言日記』というサイトの「カーネーション」思索が秀逸で面白くてずっと読んでいる。そうだそうだと腑に落ちることばかり書いてある。

それにしても、糸子の相手役周防の人物像は、他のどれもはなはだハッキリしたキャラクターに比べて、最初からずいぶんボヤかした描き方をしていましたね。(中略)これは糸子の目、あるいは心象風景を通した周防像なのだと。糸子の心にはこのように記憶され回想されているのだ、ということなのでしょう(「なぜか「朝ドラ」が面白い! 35」)。


というあたりを俺も強く(そしてそのことを気持ちよく)感じており、『お父ちゃん、勘助、泰蔵にいちゃん、勝さんの顔が画面をよぎるだけで、見ているこちらの胸も本当に疼く。泰造兄ちゃんなんていつも道具をかついで横切るだけだったのに、こちらは糸子と奈津を通して見ているから存在自体が自然発光していたのだよなー』と書いていた。「カーネーション」の美しい映像は、糸子の目から見た活き活きとした時代の輝ける岸和田なのである。

「カーネーション」は常に解釈を求めるドラマで、答えは提示されていない。だから自分がどう感じたかを言いたくなるし、人の感じ方を聞きたくなる。そこここに散りばめられたキーワードやサインを共有することも大事な儀式となる。ツイッターがその役を果たしていて大盛況なのだが、サリエリ氏はその気持ちを「臨調感」という言葉を使って解き明かしている。

映画やドラマによくある回想シーンとか、フラッシュバックがここにはないでしょう。それらは安直に多用すると、観るほうの視座を主人公の目線から、不意に客観的な神の座へ引き上げてしまい、かえって臨調感を失わせるのです(「使ってはいけない」ということではありません。使う必然性が充分練り上げられているなら、それはそれで「手法」になり得る。肝心なのは、ひとえに作り手側の明晰な問題意識でしょう)。

同じような事柄で、すでに死んだ父善作や勘助が、主人公に(夢の中で)語りかけたり、遺影が動き出したりということもない(いずれも、よく使われる手法です)。善作の遺影は遺影のままであり、それがどう見えるかは、「今、その場にいる糸子」とそれに同期した目線の我々の「想像力」だけに由っている(丸投げされている)。だからこそ、毎日毎日「ああでもない、こうでもない」という口コミがネットで絶えないのでしょう。

 この口コミの多さこそ、このドラマのもつ「臨調感」の証左なのです
。なぜなら、私たちの住む「現実世界」とは、まさしく「ああでもない、こうでもない」の世界であって、あらかじめ決まりきった予定調和で進んでいるわけではない、一寸先が誰も分らないからこそ、「ああでもない、こうでもない」となるのですから。これって、震災と原発事故以降の先の見えない日本の現状の気分とも同期していますね。(10:太字=引用者)


俺たちは物語のその場に居合わせ、そこにいる人たちと同じ気持ちを味わうという体験をしているのである。幸せなシーンでは本当に楽しく、つらいシーンは苦しい。だからそれを喋らずにはいられない。この体験を家族と共有できないのがつらい(笑)。



「カーネーション」本編はいま、創造的バイタリティの塊である次女と、それに脅かされる長女を巡り物語が展開している。糸子は流行をはずしたという失意の失敗談が挿入されただけで、背景にずさーっと下がってしまった。『糸子が三姉妹の背景へと徐々に下がっていく。先週までは糸子交代なんてとんでもないと感じていたけれど、寂しいが人生はこういうもんかもしれないと説得されてしまう』とツイートしたが、サブキャラとして頑固親父となった糸子には案外善作ほどのスルメ味はなく(それがお父ちゃんの貫禄というものか)、糸子自身の魅力もくすんで見えてしまい寂しい。しかしこれさえもが意図的なものだろうとサリエリ氏は分析する。

ここ最近以前のような感動がない、といった書き込みが感想欄に散見しますが、それはたぶん糸子の眼から例の七色の涙が見られなくなったからでしょう。波乱万丈の前半生、しかも戦争を潜り抜けた四十数年間となれば、人間大抵のことには驚かなくなる。尾野さんはそうした年齢相応の人物像を、ごく自然にそのまま演じているわけです。(44


そうかもしれないな。だがまあこれだけですんなり後を引き渡し糸子@尾野真千子が終わるなんて誰も思ってないわけで、最後の輝きがどんなものになるのか、それはすごいことになるだろうとかたずを呑みつつ、いまは誰もが子供らの活躍と苦闘を楽しんでるわけです。

2012/02/03

日記「ランドリーゲートの想い出(立川基地の青春)」

「糸子の恋(カーネーション)」「予期せぬジャムセッション」「ランドリーゲートの想い出」ほか。

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■12/01/27(金) □ 糸子の恋(カーネーション)
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テーラー周防開店に動く糸子。画面いっぱいに漂うアンハッピー感、糸子の地に足がついてない感。昌ちゃんが能面になっている。やっぱりそうなるよな。糸子は批判は受け入れると言ったけれど、それは単なる言葉であって、糸子の気持ちもみんなの気持ちも言葉ではどうにもできない。残るのはアンハッピーさだけ。

「風と共に去りぬ」のアシュレーのごとく、周防さんが病弱の奥さんに戻っていく。そして糸子の目が覚め、「そうや。タラや。タラに帰るんや......だんじりに」となる―――そうなるよう俺は願っている。誰もが苦しすぎる恋なんだ。

しかし後戻りできないところまで来てからあんな顔をするなよ周防さん。あんな顔をするなら連れて行かないでくれよ。あんなところまで行ってから糸子を泣かせないでおくれよ。

そしてやはり少しだけ「風と共に去りぬ」的に、恋は終わりました。

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■12/01/28(土) □ 予期せぬジャムセッション
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萌を友達の誕生パーティに連れて行く。誕生パーティといっても大人も何十人もいる盛大なホームパーティで、知ってる人は1人もいない。こりゃ退散だと萌を置いて去ろうと思ったら、その家になんとグランドピアノを発見した。グランドピアノなんてある個人の家は初めて見た。―――あ、ギターもある。キーボードもマイクもある。アンプやミキサーや PA や録音機材も揃っている。なんという音楽的な家なんだ。

そしてちょうどピアノを弾けるお方がまさに着席するところ。これはやらせてもらうしかない。許可をもらってしょぼいアコースティックギターを手に取り、ジャムセッションを開始した。

ピアノマンはジャズ畑の人だそうで、「じゃあCmのブルースで」と弾き始める。Cmのブルースなんて聞いたことないよ(笑)。ギターでは無茶苦茶弾きにくいキーである。やっぱ鍵盤屋は別世界の住人だなと思いつつ適当に合わせる。ピアノにギターの低音弦カッティングが入ると、それだけでリズムが出て相当に気持ちいい。次の曲ではブルースハープ(ハーモニカ)が吹ける人が入ってきて3ピースバンドになった。この家はハープも各キーが揃っているらしい。なんて家だ。
だいぶあとで判明したのだが、このうちのお父さん(このピアノマンではなく、二度目のセッションでピアノを弾いたおじさん)はバンクーバーの演劇用に曲を作る作曲家らしい。

聴衆が徐々に集まってきて、ピアノマンが「Just the Way You Are(ビリージョエル)」を歌い始める。バーとかでこういうスタンダードをたまに歌ってるような人なのかもしれない。俺は当然コードは知らぬが、ピアノマンの音からキーを拾い歌に合わせオブリガード(合いの手)を入れていく。ピアノマンは俺の音を聞いて喜び、間奏でソロを渡してきた。音の小さなボロいアコギなので音量が足りず、それでもキュッキュッと高いピーク音を使い皆に聞こえるように弾き、お客さんを喜ばせる。


日本で「ボニーモロニー」などを
やってた頃
じゃあ次はEの3コードで頼むぜと俺が声をかけ、♪I went down to the crossroads, fell down on my knees. I went down to the crossroads, fell down on my knees. なんとかかんとかマーシー! なんとかかんとかプリーズ!「クロスロード(クリーム)」を大声で歌う。歌詞はこれくらい覚えてればOK。ハープ男も一緒になって歌ってくれ、人もどんどん集まり盛り上がってきた。よおし。いいぞ。

最後はAの3コードのロックンロールリフを俺とピアノマンが弾き、ハープマンがハーモニカでソロを取る。しかし歌がないと盛り上がらないぜ。このコードで歌えるものは......と弾きながら考え、後半無理やり「ボニーモロニー(ジョンレノン)」を歌った。♪I got a girl named Bonny Moronie/She's as skinny as a stick of macaroni......―――いつからか知り合いのGYが来て聞いてたらしく、曲が終わると「トモすごいわ!」と抱きついてきた。いやー盛り上がった。よかったよかった。

萌は俺がギターを弾き知らない人々にウケてるのを初めて見て、「あれうちのお父さんだわ!」と遠くから声を上げ恥ずかしそうにしていた。親がすることはなんでも恥ずかしい年頃なので近くにはこないが、まあいいぜ。ロックンロールだぜ。



パーティからの帰り際またセッションが始まり、ギターを他の人が使っていたので俺は許可を得て壁にかかっていたどこかアジアの三味線風なものを借り加わる。←これだ、アフガニスタンの楽器・ドタールだって。こんなものチューニングも弾き方(スケール)もわかるわけないのだが、シタールみたいな音がするのでピロピロとオブリガードに使うと案外気持ちいい。それにコードストロークでジャッジャとリズムを出して打楽器として使うと、グルーブ感が出てけっこうイケる。

だいたい酒が入ったパーティのジャムセッションなので、こんなワケのわからない楽器を弾いてる奴がいるというだけで笑える。盛り上がるのである。「レットイットビー」のソロをこれで弾いたらバカウケした。ちゃんと弾けてるわけないのだが、ギターソロのメロディは全員が当然知ってるので、三味線上で俺の左手がそのメロディに合わせ動くだけでエア三味線としてオオオとウケるわけである。

演奏後は「彼はトウキョウから来たパンクロッカーよ!」とGYからなぜか誤って紹介され、知らないお母さんがたにありがとうグレイトと抱き締めまくられました。いやパンクだったわけではないのだが(笑)、よかったよかった。サンキュー! サンキューバンクーバー!

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■12/01/29(日) □ ランドリーゲートの想い出
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PYG 時代の岸部一徳のベースがジョン・ポール・ジョーンズに激賞されていたという話をツイッターで知って驚き(井上堯之バンド「傷だらけの天使」のあのなつかしいベースラインも彼だったのだ!)、Youtube に PYG「自由に歩いて愛して」を聞きに行ったら、少女時代立川基地に住み、ジュリーを愛したというアメリカ人女性から驚くべきコメントがついていた。

私は 1969-73 年に立川基地に住んでいてジュリーの大ファンだったの。彼はテンプターズのショーケンと PYG というバンドを組んでいて、私たちは何度もライブを見に行ったわ。ジュリーはストーンズやエルトンジョンを歌って素晴らしかった。ジュリーとショーケンはその頃一番人気のあるロックシンガーだったわね。オープンリールで何本も彼らのテープを持ってるのよ(ポーラ)

オーマイグッドネス。旧米軍調布基地跡警備で働き、同僚が担当する立川基地跡にも何度も行った俺は「ここでどんな暮らしがあったんだろう」とよく想像したものだけれど、米軍基地に住み日本の音楽を聞いてる人がいたなんて。あの時代にタイガースや PYG を聴いてる外国人がいたなんて! そんなのは考えたこともなかった。すごい。うれしいではないか。

閉鎖後の立川基地に出入りできたわずか数人の日本人の1人である俺が、沢田研二→岸部一徳→PYGつながりでこの人に出会ったというこのエンカウンターもまたスゴイ(そういえば立川基地常駐の俺のボスも沢田研二の大ファンだった)。ポーラさんにそうコメントをつけると、圧倒されるほどのパッションで大長文メールが帰ってきた。

『13歳から17歳まで立川にいたのよ。アメリカに帰るときは、帰りたくないって飛行機の中でずっと泣いてたわ。当時の米兵は日本の人たちにひどい態度だったけど、私は基地の外で働いて、まわりは全部日本人の友だちで、大和基地のハイスクールでも日本語を取ったから日本語の上達も早かったの。ジュリーを見に何度新宿に行ったことか。彼はものすごくゴージャスで美しい声だったわ』

『あの頃の日本の素晴らしいライフのことなら、いくらでも書けるくらいよ。本当に友だちが恋しくてたまらない。日本に帰りたくてたまらない。もちろん今はもう昔と違うってわかってるけれど、それでもいつか必ず行くわ。そしたら間違いなく泣いちゃうわね。私はあそこに、心の一部を置いてきたのよ』


―――そうか。フェンスの外に友だちがいた立川基地の少女。この人は松任谷由実「ランドリーゲートの想い出」の女の子だったんだ。折り返し「ランドリーゲートの想い出」のクリップに英訳をつけて彼女に送る。ほら、これはあなたの歌ですよ。


ランドリーゲートの想い出
(Momeries of The Laundry Gate)

ふた駅揺られても まだ続いてる
Train has passed 2 stations already, and still I see
錆びた金網 線路に沿って
The rusted wire fence, all along the railroad

昔あのむこうを あの子と二人
I used to walk on the other side of the fence
風に吹かれて 歩いたものさ
Blown in the wind, along with her

男の扱い ピザの作り方
Ways to handle boys, how to make pizza
得意気な声が 目をつぶれば聞こえる
I can still hear her bragging tone of voice as I close my eyes

ジミヘンのレコードも返せないまま
I couldn't give her Jimi Hendrix record back
手紙を書く柄でもないし
Maybe I should write to her, but I'm not that kinda type

見送る約束 寝すごした日には
I couldn't make it to see her off, when I got the the old runway
古い滑走路に 夏草だけ揺れてた
Only I could see were waving summer weeds

16の誕生日 私にくれた
I even put on the bitter lipstick she gave on my 16th birthday
苦い口紅 つけて来たのに
to say goodbye

あの子がふるさとへ飛んでいってから
Since she has flown back to her home country
なぜか寂れてしまったランドリーゲート
the Laundry Gate became deserted somehow, I don't really know why


「これが自分にとってどれほど意味のある歌か、言葉にできないほどだわ」と彼女は答える。40年の彼方から美しい外国の歌となって甦る、甘い想い出よ。

彼女は立川に置いてきたんだ、本当の自分を。アイラブユーベイビー、ぼくらは、立川が好き。


Tachikawa AB Laundry Gate 1969 (C) TachikawaAirBase


追記(2012/02/11):ポーラさんが(米軍)大和ハイスクール時代の同級生にこの歌のことを話したら、「それは大和ハイに行ってたあの子の歌よ! もう亡くなったけれど、お葬式にユミが来て歌ったのよ!」と言われたそうです。―――なんだこの奇跡のめぐり合わせは。すごすぎるとポーラさんも私も絶叫状態。



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